文欽 ノリがいいだけの漢じゃない!司馬一族に2度逆らった義士

どうも!

諸葛菜です。

文鴦、文虎と紹介してきたので、文欽を紹介する必要もなくなってきましたが、どうか、今さら感を抑えて読んでいただけたら光栄です。

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文欽(生年不詳- 258年) 子:文鴦、文虎

まず、ウィキをご覧くだされイ。

魏の勇将とありながら、

文欽は、魏諷と言う人が叛乱を起こした際、連座し処刑されそうになったが、曹操が父親の功績に免じて許された。文欽は気が荒く、礼節を弁えぬ性格のため人望が無い。いずれの任地でも傲慢で、上司を馬鹿にしたり、法に従わないので周囲から憎まれていた。このことでいつも弾劾の上奏を受けたが、曹叡はこれを抑えてやった。

  1. 文欽は、貪欲残忍さを取り上げられて、弾劾され中央に召し返された。
  2. 中央に戻ってから、曹爽に厚遇され、再び任地に戻ったが、ますます付け上がった。
  3. 中央に対し、捕虜数や戦功を水増し報告したり。

演義では目立った活躍は無かった武将に、ここまで悪行を書いたウィキページも珍しく、淡々と書きながらも文欽への思いがにじみ出ています。

思いのままに振舞っていたので、ストレスをためない人なんだなあというのが、文欽の第一印象です。

ってか…社会人として終わっていますね。

毌丘倹の叛乱に至るまで、よく誅殺されなかったと、冷や冷やものの経歴です。 記事の内容と、記事の題名が違うじゃないか!と思った読者さんもいらっしゃると思います。あくまで、諸葛菜演義だけを読んだときの文欽に対するフィーリングですので、あえて感じたままを題名に残します。

参考記事の文鴦、文虎もご覧ください。

 

毌丘倹と一緒に立つ!!

毌丘倹は、曹芳が司馬家に排斥されたのを怒り、悲しみ、涙を流していると、文欽がやってきた。

司馬氏の専横を糾そうと毌丘倹が言うと、

「都督は一方の軍勢を預かるお方、もし義によって賊を打とうとのお志をお持ちなら、それがしも一命をなげうってお力添えいたす覚悟がござる。それがしの次男文鴦は万夫不当の勇。かねてから曹爽殿の仇を討とうと念じておりますゆえ、先鋒といたすがよろしゅうござりましょう」

と、息子を推薦。

二人は酒を地に注いで誓いを立て、太后の密詔をいただいたと言い立てて挙兵。 呉の孫峻に背後を脅かされたり、魏軍に先をこされたり、後手後手の反乱軍。文欽は楽嘉城を救出しようと、毌丘倹に提案。

「それがしに5000騎も与えて下されば、息子文鴦とともに楽嘉城を守りおおせて見せます」

文鴦と兵を二手に分け、文鴦は北から、文欽は南から司馬師の陣営を奇襲します。 文鴦は鬼神如き戦いを繰り広げますが、

親父の文欽は、

(原文)

もともと文欽は険しい山路に踏み込んで谷の中に迷い込み、一晩歩き続けて、ようやく谷を出たときにはすでに夜が白みかける頃、文鴦の同勢はどこへ行ったか分からず、魏の軍勢が大勝しているありさまに、戦わずに下がろうとしたが、魏の軍勢が余勢を駆って追ってきたので、寿春目指して逃れた。

敵に追われて森の中で迷うのではなく、こちらから攻めておいて途中で道に迷ったのは、三国志演義でも非常に珍しいパターンです。

魏の勇将だとか、兇暴とか言われているので、腕っ節は良さそうですが、肝心なお頭の方がちょっと・・・今一歩。斥候を放ったり、息子と連携を密に取って、敵を追い詰めるための段取りが、全然できなさそうなキャラですね・・・。

文欽の心の友である尹大目さんが、司馬師の命を受け、文欽に降参を勧めにいきます。

尹大目から、

「あと、5,6日我慢しろ!」

と伝えました。これは、司馬師の寿命がもうすぐ尽きそうなことを伝えたもの。

その意を解せず、文欽は弓矢を発射。

ここで意図を察して、城にこもっておれば、司馬師死亡→士気爆減→退却の流れになっていたかもしれないのに。。。

結局、戦には破れ、文欽親子は呉を頼って落ちのびます。

 

諸葛誕との共闘

諸葛誕とは折り合いが悪かった」とウィキにも書かれている通り、諸葛誕が謀反、呉が諸葛誕に援軍を派遣。文欽も道案内役として呉軍と行動します。

諸葛誕が籠城、兵糧不足になり、喰い延ばし計画を提案しますが、諸葛誕に聞き入れられずに斬首。息子2人は魏に降参してしまいます。

文欽は強いけれども、何か事を成し遂げるため、一つ一つ物事を積み上げていくことが非常に苦手で、ケアレスミスの多い武将だなと感じました。