杜預 三国時代末期の晋の英雄 破竹の勢いの故事成語

どうもっ!

諸葛菜ですっ!

今回は杜預。

杜預を書かなければと思っていたものの、演義では活躍したと思ったらすぐに三国志演義が終了してしまったので、彼に好感を持つ暇もありませんでした。

杜預の『左伝癖』についての説明。※春秋伝が好きで、外出する時も必ず共のものに、左伝を馬前に捧げさせた。

鎮南大将軍となって、長江を下り、呉軍を撃破しました。伍延陸景孫キンを瞬く間に粉砕。自分から先陣をきって、敵将を打ち取るわけではありませんが、部下の周旨を上手く使うなど用兵に長けていましたね。

「胡奮から、冬の来るのを待って建業攻略をするのは如何?」

と、問われましたが、破竹の勢いで攻め破れば良しと、速攻で呉軍をやっつけてしまいました。

以上で演義での活躍は終了です。

 

司馬昭の代になってから徐々に上向きに

wikiを調べてみたら…なんとまあ、充実しています!

略歴の冒頭部分を見てみると、時の支配者司馬懿様と折り合いが相当悪いという、魏で生きていくにはある意味「詰み」の状態でしたが、司馬昭が司馬家の当主となると運が上向き始めました。

司馬昭は曹奐にトドメを指すようなこともしなかったし、逆らった文欽も殺すこともしませんでしたし、割りと寛容な部分がありますね。もちろん政治的な目的があったのでしょうけど。普通の友達としてなら、そんなに悪く無い奴なのかなと、甘い諸葛菜は思ってしまいました。それと、トウ艾を尊敬していたようで、

また鄧艾を尊敬していたため、鄧艾を殺した衛瓘 ・田続 らを厳しく非難している。

とのこと。

悪行超人なのに天寿は全うしたんだよなあ…この二人。

トウ艾 part.3 戦う前から死亡フラグでボロボロ。それでも前進あるのみじゃ!

 

上司の石鑒とは仲が悪かった

石鍳さんとは折り合いが悪く、時々衝突していました。

泰始年間(265年 - 275年)、官吏の貶降と昇進について下問を受けると、次のように述べた。「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。しかし、今は違います。遠方のことについて、詳しく知ることはできません。人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。 法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。優劣を挙げるとすれば、各々監査する官を設けるに越したことはありません。毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。」 この上奏を遺憾とした司隷校尉の石鍳は、杜預の職を免じた。 その頃、異民族が隴右に来襲し、杜預は安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を授けられた。安西将軍となった石鍳は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。 石鍳は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。杜預の処遇について議は長引いたが、杜預夫人が武帝の叔母であることから、爵位で罪を贖うということで決着が付いた。 その後、隴右の情勢は杜預の言葉通りとなり、朝廷では杜預が戦略に明るいと評判になった。 やがて匈奴の劉猛が叛き、并州以西や河東・平陽に威を及ぼすと、杜預は度支尚書に任命されて支援対策に当たった。彼は新兵器を開発させる一方、常平倉の設置や穀物の一定買取、塩の定期輸送で農政を安定させ、その上で税制を整えた。 これによって、内外五十余条の地域を救済した。ところが、石鍳の論功行賞が不誠実であるのを糾弾したことから激しい口論となり、杜預と石鍳の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。

リンク元ウィキ杜預

異民族は例の禿髪樹機能達です。

禿髪樹機能 三国時代末期の鮮卑の首領!鮮卑の人民は俺が救う!

 

呉を討伐した後も彼は謙虚に、かつ、礼儀正しく生きてきたようです。

凱旋後、杜預はその功績によって当陽県侯に昇格し、食邑は9600戸に及んだ。杜預は「私の家は、代々、官吏の家です。武功は功績になりません」と辞退しようとしたが、許されなかった。 その後も江夏・漢口の経営にあたり、住民に大変慕われて「杜父」と呼ばれ、江南では「後世、杜翁に由って叛くこと無かれ。孰れも智名と勇功を識る」と謳われた。   杜預は後世に名を残すことを願っており、常に「高岸を谷と為し、深谷を陵と為さん」と言っていた。そして、自分の勲績を刻んだ碑を二つ造らせ、一つは万山の下へ沈め、もう一つを峴山の上に立てた。一方、大功を立てた身として、気をつけなければならなかった。彼がしばしば洛中の貴族要人を饗応するので、人が理由を問うたとき、杜預は「彼らの恨みをかって危害を加えられないためだ」と答えたという。   その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去した。武帝によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡された。『晋書』杜預伝は、その人となりを約して「交わりを結び物を接するに、恭にして礼有り。問うに隠す所無く、人を晦するに倦まず。事において敏にして、言において慎たり」と伝える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E9%A0%90

もう、wikiでスッキリとまとめられているので、これ以上いじりようがないですね!

チャイナサイトでも覗いて変わったことが書いてあれば、今度訳してアップしたいと思います^^;