劉璿 劉瑤 劉琮 劉恂 劉キョ 劉瓚 劉禅の愚息ども大集合!

どうも! 諸葛菜です!

 

劉禅の息子(劉諶以外)が大集合だ!

劉セン、劉瑤(ヨウ) 劉琮(ソウ) 劉恂(シュン) 劉キョ 劉瓚(サン)については、例によって三国志7の新武将の顔グラから取ってこようとしたけど、アメブロの画像ファイルの許容量の無駄遣いなのでやめました。

ったく・・・書くのも面倒な奴らだぜっ!∑(゚Д゚)

登場回は演義第118回。

劉禅が降服か、亡命かを迷っているところ、五男の劉諶が降服に大反対。

ここで、上記6名の紹介が始まります。

抜粋 後主には七人の子があったが、長子は劉璿(セン)、次子は劉瑤(ヨウ)、第三子は劉琮(ソウ)、第四子は劉瓚(サン)、第六子は劉恂(シュン)、第七子は劉キョである。 七人の子のうち劉ジンだけは幼時より聡明で、抜群の才があったが、他の者たちは柔弱であった。 劉ジン以外は全員ダメ。

と、ダメ押しされるためだけに名前だけ登場。特にこれといって何かをしたわけではありません。 第119回。

蜀滅亡。 降服した姜維が鐘会と共に魏に対して反乱計画を立てましたが、その他の魏将たちが計画を察知。城内で鐘会・姜維VSその他武将軍団が激突。

その際、太子劉センは魏の兵士に殺されました。

演義での活躍は終了ですが、とりあえず、この6人を一人ひとり見ていきましょうか。 劉セン(224年 - 264年)は、三国時代の蜀の皇太子。字は文衡。家系は劉氏。蜀の第2代皇帝・劉禅の長男(長子)で、妻は費褘(ヒイ)の長女。

238年に15歳で皇太子に立てられる。騎射や遊楽を好み、太子中庶子の霍弋に諌められた。皇帝となれるほどの器ではなく、遊び好きなところは父・劉禅と似ていた。

劉瑤(ヨウ) 238年安定王に封じられた。蜀漢滅亡後は洛陽に移された。

劉琮(ソウ) 252年西河王に封じられた。262年正月に死去。

劉瓚(サン) 256年新平王に封じられた。蜀漢滅亡後は洛陽に移された。

劉恂(シュン) 259年新興王に封じられた。蜀漢滅亡後は洛陽に移された。271年劉禅死後、その爵位を引き継いだ。

劉キョ 259年上党王に封じられた。蜀漢滅亡後は洛陽に移された。

まっこんなもんですかね。

劉諶と一緒に、こいつらも降服に反対していたら、どうなっていたんだろう。 劉禅が親征!なんてことに・・・ならないか(汗)