諸葛緒 鄧艾の部下 俺の愛車は囚人車(涙) 死亡年ははっきりしてるぜ!

どうも!

諸葛菜です!

それがしの一族かもしれない、魏の雍州刺史諸葛緒さんです。 ※諸葛亮孔明諸葛誕などの一族とは別の生き物のようです。

[caption id="attachment_1517" align="aligncenter" width="600"] 百度より[/caption]

見よ!雑兵と変わらぬこのいでたち!

諸葛緒(生年不詳-273年)

 

蜀討伐に参戦!

司馬昭より命を受けた鐘会と鄧艾は討蜀の軍を起こしました。また、雍州ら辺境の太守や刺史にも討伐軍を起こすよう呼びかけました。

鐘会らが漢中へ侵入。沓中にいた姜維は慌てて漢中へ引き返します。

諸葛緒は漢中へ引き返す姜維軍の退路を防ぎました。この時すでに、鄧艾軍、楊欣、王頎らが姜維を追撃しており、姜維もかなり追い詰められていました。そこに諸葛緒が退路を断ったもんだから、姜維も大ショック。

「わしは天に見放されたか!(涙)」

鐘会の指示とはいえ、天水の麒麟姜維にここまで弱気な一言を吐かせるとは・・・諸葛緒、あなどれませぬ∑(゚Д゚)!

が、諸葛緒の活躍もここまで。 姜維の副将甯(ネイ)随が、雍州攻めの姿勢を見せれば、雍州刺史の諸葛緒のことだから、自分の持ち場に戻るに違いないと提案しました。諸葛緒はこれにあっさりと引っかかります。

「雍州はわしが守らねばならぬところ。もし取られでもすれば、重いおとがめをこうむるであろう(汗)」

と、ここで小者発言。 戦の大局よりも、自分の持ち場を守ることを優先。雇われ武将振りをあらわにしてしまいます。 陽安関、楽城、漢城、そして漢中が落ちましたし、成都も危うい状況。どう考えても、主力の姜維が雍州を攻略する意味は全くありません。

何やってんだ諸葛緒・・・(ノДT)。 とにかく、諸葛緒は橋のたもとに僅かな軍勢を残して、自身は大軍を率いて雍州へ。それを察知され、姜維軍が橋へ殺到し、陣屋を全て焼き払われてしまいました。

諸葛緒は取って返しましたが、全て後の祭り。 姜維の軍勢が通ったのは半日も後のこと。諸葛緒は追うのをあきらめてしまいました。

 

 護送車…In!!

しかし、この男が本格的に痛めつけられるのはこれからです。 諸葛緒は懲りずに姜維廖化張翼・董蕨らが守る剣閣へ殺到。これを見た姜維はブチ切れ、5000騎を率いて関を駆け下り突撃してきました。諸葛緒軍は、姜維軍に右に左に荒れ狂われ、散々に打ち崩されて数十里も引き下がって布陣。

諸葛緒の軍はおそらく数万はあったのでしょうが、このざまです。 諸葛緒は総大将の鐘会の元へ謝罪に出頭。

「わしは貴様に、陰平の橋の渡り口を固めて、姜維の退路を断つよう命じておいたはずだ!なぜ取られたのか!しかも今度は、許しも得ずに兵を進め、また負けてきおったのか!?」

姜維は詭計多く、雍州に向かうかのごとく見せかけましたので、それがし、雍州に万一のことがあってはと救いに向かったところ、うまうまと逃げられたのでござります。よって関の下まで追ってまいりましたが、思わぬ不覚をとりました」

そうですけど・・・関まで下ってのあたりは、不覚どころか、大将軍姜維相手では当前の結果です(汗)。鐘会に危うく斬られそうになりますが、一命だけは取りとめ、諸葛緒は囚人車に押し込められて、洛陽に送られてしまいます。彼の軍勢は鐘会に没収。

かわいそうなのは諸葛緒の兵士たち。諸葛緒にくっついていたら負け戦ばかり。 かといって、鐘会軍に繰り入れられたら先陣きって、矢石避けにされる可能性大で、いずれにしても死亡率が高すぎます。

 

真説 その後の三国志」では?

坂口先生の「真説その後の三国志」でも諸葛緒について触れられていました。

諸葛緒はすでに朝廷から「姜維軍をよう撃」するよう詔を受けていたので、鄧艾軍と一緒になって西へ行くのは詔勅に反すると判断。南下して鐘会と合流し、剣閣目指していましたが、鐘会に、

「諸葛緒は怖気づいて進もうとしない」

と、難癖をつけられ兵を没収されてしまいました。これは鐘会が彼の軍勢を独占しようとしたもの。諸葛緒の大軍と、諸葛緒の気の弱さに付け込んだ鐘会の悪行を、坂口御大はしっかりと書いておられました。

鐘会の、弱者を嗅ぎつけるこの嗅覚。残念な器をここで指摘されていましたが、分かっていないのですね・・・。

蜀討伐を機に、また何かを企んでいた鐘会。。。

鐘会 part4 劉備にもなれず 野望半ばにして果てる!

諸葛緒ですが・・・

ウィキによると、

「その後は特に罪にも問われず、西晋の時代に太常・崇礼衛尉まで昇進している。孫の諸葛婉は武帝の夫人となった。」

めでたしめでたし・・・。 鐘会ひでえ!