劉放 孫資 コンビとして曹叡に重用され出世街道まっしぐら!
どうも! 諸葛菜です!
今回は劉放と孫資。
劉放(生年不詳-250年)
孫資(生年不詳-251年)
燕王曹于を宮廷出入り禁止に
三国志演義後半での登場は第106回。
枢密院の一切を取り仕切っていた実務のエキスパートのようですね。 曹叡からの信頼も厚く、曹芳を補佐するのには誰が適任かを相談されていました。この二人は曹爽恩顧の者どもです。
「曹真殿のご子息、曹爽殿でなくばかないますまい」
と回答。曹叡がうなずいたので、二人はすかさず、
「曹爽殿をお用いになられるなら、燕王を国元へお返しになるがよろしゅうござります」
二人は詔を賜い、それを持って燕王曹宇に申し渡した。
「天子のご直筆の詔により、燕王に帰国を命ずる。即日、出立いたされよ。お召しの無い限り二度と朝廷に立ち入ることを禁ずるっ!」
くっ・・・実務家だけあって仕事が速え!お気の弱い曹宇に対してとはいえ、この仕打ちはあまりにも・・・。
が、実務に長けた彼らとて、大きなミスをしています。それは、司馬懿をも補佐役として選んでしまったこと。司馬懿がクーデターを成功させた後も、この二人は処分されていないんですよね。まあ、事変の際、曹爽と直接のかかわりが無かったからでしょうけど。結果的に劉放、孫資の決断が曹家の滅亡を早めた、またはきっかけを作ったと言ってもいいかもしれませんね。
キレ者二人でもここまでは見通すことは出来なかった・・・。
ウィキには色々と書いてある二人
この二人は出落ちだと思っていたら、ウィキにはずいぶん書いてありました(汗)。
油断してた!
劉放は漢王室の末裔ですし、孫資は王允、賈逵、荀イクなどに評価されていてかなりのキレものですね。
劉放は達筆で、文書の構成に巧みだった事でしばしば功績を挙げた。曹操から曹叡(明帝)までの曹氏三代に亘る文書や布令文の多くは、劉放の手によるものであった。 陳寿の評では、孫資に対しては才能や策謀では上であったが、品性では劣っていたとある。 孫資の子孫は繁栄。孫宏の子が「枕流漱石」で有名な孫楚、孫楚の孫が『三国志』の注に引用されている文などで有名な孫盛である。
引用元:孫資のウィキリンク