樊建(はんけん)! 董允亡き後、董蕨、諸葛瞻らと後期…否、超末期の蜀の政界を支えた人物

どうも! 諸葛菜です!

後期の蜀政を支えた文官樊建先生だ!

樊建(生没年不詳)

姜維を抑える

演義での登場回は、まず第111回。

姜維が王経を撃破し大勝。鄧艾に不意を衝かれたため退却したものの、軍勢はほぼ無傷。姜維は意気軒昂で、盛大な酒宴を張り、魏討伐の軍議を催していました。

樊建がここで諌めます。

「将軍にはこれまでしばしば出陣せられ、かつて大功を収めるおりに恵まれなかったところ、このたびのトウ水の合戦において、魏のものどもの勢いをとりひしがれたのでござりますから、これにていったんお引揚げになるがよろしかろうと存じます。万一不覚を取っては、折角の功も無になりましょうぞ」

もっともなアドバイスです。このセリフこそ、姜維の失敗フラグに思えて仕方ありません。合戦はどうなったのか。

鄧艾も演義に登場したばかりですし、いきなり負けるわけにはいきませんよね…。

結果は大敗。

費褘はすでにいないため、姜維の遠征を止めようとするのは現場の張翼廖化を除くと、樊建先生くらいしかいません。譙周(しょうしゅう)が止めると、腐れ儒者扱いされちゃいます(汗。よいブレーキ役になって欲しかったですが、この頃の姜維を止められる人はいません。

 

器がデカイ漢!

次の登場は第119回。

成都陥落。劉禅長安に移された際、樊建はシュウ周らとともに妻子を捨て、劉禅に同行しました。演義での活躍は以上ですが、ウィキには詳しく書いてありますね。 諸葛亮死後、呉に使者として訪問。孫権は病床にあったため会えませんでしたが、諸葛恪と面会。 その際、能力的には宗預ほどではないけれども、性質では勝っていると評価されました。by諸葛恪

261年に諸葛瞻と董厥が平尚書事となると、樊建と三名で国政を預かることとなった。劉禅が信任する宦官の黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建達はお互いにかばい合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。

ムムム・・・この三名をもってしても黄皓を止められぬのか・・・。相当勢いがあったんですねこのねずみ男黄皓)・・・! 西晋になってから、司馬炎諸葛亮の治世について質問されると、「諸葛亮は悪を知ったらすぐに改め、決しておごらず、賞罰は信があり、神のようでした」と、これを賞賛した。武帝もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都で無実の罪で誅殺されていた鄧艾の赦免を平伏して嘆願した。武帝は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

忠義の士。

このころの蜀では、まともな文官はほとんどいないため、樊建、郤正らの忠臣ぶりがとてもよく光ります。 他の数百、数千のモブ文官どもはすべて黄皓におもねっていたんでしょうな・・・。