胡済 諸葛亮からも信頼されていた?李厳の後任者。戦闘タイプのモブ

どうも! 諸葛菜です。

今回は胡済。蜀の将軍です。

胡済(生没年不詳)

 

王平の後を継いだが、ずさんな男?

中国語サイトをみたところ、諸葛亮の信任を受け主簿を勤めていた。諸葛亮の死後、軍を率い始め、王平の死後は彼の後任となりました。

王平 北伐時、諸葛亮孔明の右腕!乱戦の勇将、治世の名将とはこのオレ様YO!

演義では見当たらなかったのですが、256年、姜維が北伐を行ったとき、胡済と上ケイというところで落ち合うはずだったようですが、胡済は現われず、姜維が単独で鄧艾軍と戦うことになり、敗北。

やってくれやがったな・・・胡済!! ウィキをみると、胡済が来なかったから負けたようですね。やっぱり貴様が来なかったからか・・・

ムムム・・・

彼が来ていたら、戦史が多少変わったものになっていたろうに・・・。

しかし、そんな胡済については何の処分もなし。鐘会の旦那でしたら、間違いなく首を刎ねていたでしょうに。

 

北伐では後詰めに

姜維も胡済の怠慢ぶりを警戒したのか、258年の北伐の際には、胡済を後詰に。(演義第113回)このときの布陣は、先鋒を廖化張翼、左翼に王含・蒋斌、右翼に蒋舒・傅僉。姜維夏侯覇が中軍。後詰も大切なポジションですし、胡済の性格から言って裏切ることはなさそうです。

ただ、後詰にまわされたのは、彼の突貫力の無さ、時間にルーズっぽいところ、軍を率いた実戦経験が少ないからなのかなと、思いました。

この回は、王含らが夜襲でぼこられましたものの、姜維廖化張翼が大活躍して、鄧艾を追い込みました。 が、胡済の活躍は書かれていない・・・。。(´д`lll)

なんか言えよ・・・そして、戦えよ胡済・・・。(゚Д゚)

せめて、

「それがし、微力とは申せ、王含殿らの雪辱を晴らしとうござりまする!」

くらいのことは言え!

 

戦ったよっ!でも、支えられなくて

続いて、263年の演義第116回。蜀滅亡へまっしぐら。陽安関、楽城、漢城が陥落、そんな中胡済の活躍は如何?

(原文) 「(中略)漢中の落城を知り、城を明け渡してございます!胡済は支えきれず、成都へ加勢を求めに参りました!」

これだけの記述ですが、きちんと戦っていたようですね。支えきれていませんが、裏切り者の蒋舒よりもよっぽどまし。 モブ武将の中では下の上ぐらいの人物か?

 

中国語(台湾)サイトの情報にさらに、余計な情報が・・・。
ちなみに、胡済の弟胡博は長水校尉尚書を務めた。

弟はさておき、胡済ってそこそこ、名の知れた人なのかな・・・?私は、馬邈以上王含未満の姜維の部下Dくらいにしか認識していないのですが・・・。

胡済もとりあえず頑張ったので、お疲れ様!