鄭袤 司馬師の側近 毌丘倹との戦いは…長期戦に持ち込んでやるっ!? 鄭泰の息子

どうも! 諸葛菜です。

鄭袤?鄭泰? 登場回は演義第110回。

毌丘倹討伐でアドバイス

カン丘倹が叛乱したので、病身の司馬師が自ら出陣。幕僚を集めて、毌丘倹討伐の評議を行った。

鄭袤が、

「毌丘倹はよく術策を弄しますが決断力が無く、文欽は武勇のみにて智謀がござりませぬ。いま大軍を持って敵の不意を衝いたといたしても、敵の士卒は鋭気盛んなおりから、なかなか破りがとうござります。ここは、守りを固めて、敵兵の鋭気の弱まるを待つがよろしく、これは周亜夫の持久の計にござります」

※周亜夫の持久の計 羅貫中注。周亜夫は前漢文帝・景帝に仕えた大将周勃のこと。呉・楚を討った時、昌邑に立て籠もって、詔があっても打って出ず、部下に敵の糧道を絶たせた。かくすること三ヶ月にして呉・楚の軍勢は兵糧尽きて壊滅した。

民明書房並みの詳細な説明、ありがとうございます。羅貫中先生!いや・・・ショウスケ・タチマ先生か?

過去の謀将の作戦を引き出し、司馬師に長戦をさせようとする鄭袤さん。もしかして、司馬師の病状悪化を視野に入れてのナイス提案か・・・? しかし、監軍の王基が、それはならぬ。兵士は毌丘倹に脅されているだけなんだから、大軍で押し捲れば勝てると発言。

司馬師

「それに違いない」

・・・ちいい・・・。 鄭袤の目論見はずれて、短期決戦で行くことになりました。鄭袤の出番、これにて終了!鄭袤のウィキリンクはありませんでしたが、鄭袤の親父さんのウィキはありました。

父:鄭泰

計略に優れた人物との評判。大将軍何進の招聘を受け、その側近となり、董卓の危険性を見抜き、何進董卓と結ぶことに反対したが進言が容れられることはなかった。その後も、董卓の暗殺を荀攸らと計画。荀攸は捕らえられたが、鄭泰は逃亡、袁術の元へ逃れた。

弟の鄭渾は曹操に仕えて功績を挙げたようです。叔父のコネで魏に入ったかと思われますが、そこまで曹家との関連性はないのかな?