鐘会 part2 才能をきらめかせ、蜀へ進軍!主要関門を次々突破!

どうも! 諸葛菜です。

鐘会がいよいよ野望をかなえるため、蜀へ侵攻します。勝てもしないのに度々魏の国境を侵す蜀の姜維に業を煮やした司馬昭。鄧艾、鐘会に蜀討伐を命じました。

[caption id="attachment_2060" align="aligncenter" width="394"] 百度鍾会より[/caption]

 

蜀討伐の命を受ける

登場回は第115回。 演義の最終回まであと5話を残すのみ。羅貫中は鐘会の切れ者キャラを売り込むため、駆け足でエピソードを紹介します。蜀討伐を決意した司馬昭が、鐘会を召しだして、

「わしはそなたを大将として、東呉を討とうと思うのじゃが、いってくれるか」

「殿のご本意は、呉を討つのではなく、蜀を討とうとしておられるのではござりませぬか?」

「おお、よくぞわかった。して、そなたはいかなる策をもって蜀を討とうと言うのか」

「それがし、殿に蜀討伐のお心のあるを知り、絵図面を持参いたしてござります」

そこには、途中の陣取り、糧秣屯積の地、攻め入るべき場所、退く場所が詳細に書かれていた。鐘会は、蜀への道は多数あるので、一方向だけでなく、鄧艾と兵を分けて進むこととしました。司馬昭が蜀討伐を朝廷で図りましたが、その際これに反対した前将軍鄧頓がいけにえになったのことは、ここではさておく。 蜀討伐といいながら、鐘会はなぜか船を集めたり、建造していました。司馬昭が不審に思って聞いてみると、 「蜀は、わが軍の出兵を知れば、東呉に加勢を求めるに相違ござりませぬゆえ、前もって呉を討つかのよう見せかけておけば、呉もみだりに動くことを控えましょう。一年のうちに蜀は破れ、そのときには船も出来上がります。そこで呉を討つことにすれば、都合よいと思いますが」 ムムム・・・ 確かに切れ者です。

切れ者であることは確かなのですが、自分の頭の良さを表に出しすぎ。こういうところが、司馬昭の奥さん王元姫や辛憲英に嫌われ警戒されちゃうんでしょうね。そんな態度は、司馬昭の側近にも知れ、二心を抱くのではと心配されます。頭が切れてエリートなので、狸を演じることも自尊心が許さないのでしょうか。。。

で、鐘会は10万の兵を率い、蜀へ向かおうとします。

蜀へ侵攻!!まずは許儀を戦陣の生贄に!?

第116回の冒頭で、鐘会が諸将を集めて協議の際、いろいろな武将の名前が挙げられていますが、ここでは割愛。

鐘会出陣。

鐘会を見送った後、劉ショウたらいうやつは冷笑を浮かべ、「鐘会は二度と戻ることはあるまい」とほざきます。先ほどの司馬昭の側近といい、劉ショウといい、どうでもよさそうなキャラを使い、羅貫中先生は鐘会に死亡フラグをこれでもかと差しまくります。

さて、鐘会は南鄭関までの道を整備するよう許チョの息子許儀に命じます。

許儀の顛末の詳細はこちらをご覧くだされい・・・、

「悲運の漢 ザ・許儀」

鐘会、南鄭関に攻めますが、許儀が道を整備していないので、羅貫中の生み出した蜀の架空武将盧遜 に、危うく殺されそうになります。鐘会は、味方の兵士荀愷に救出され、一命をとりとめる。

これに怒った鐘会は諸将のとりなしも聞かず、許儀を処刑。

荀愷 兵士だからってなめるなよほ~!魏の出世頭です。

当時の中国(元末、明初)で「三国演義」を発行していた羅貫中編集部に、「許儀処刑」に関する苦情のFAX・はがきが殺到したのは伝説となって語り継がれておりまする。

南鄭関を破った鐘会は、陽安関、楽城、漢城に迫りました。

楽、漢はともかく、陽安関には蜀の剛腹の荒武者といわれた蒋舒、傅僉が立て籠もっています。

鐘会が大音声に、

「わしはいま、十万の大軍を率いてきたのじゃ。早々に関を明け渡せば、官位によって取り立ててやろう。が、もし蜀にいらざる忠義立てして降らなければ、ひともみに踏み破って、一物残さず焼き払ってくれようぞ!!」

傅僉が打って出ますが、鐘会はこれを楽々撃破。蒋舒を降服させ、陽安関を陥落。

しかし、喜びもつかの間、鐘会軍の前に怪奇現象が巻き起こる。

さて、それは次回でっ!