丁奉 part2 孫休の命により孫ちんを暗殺!孫皓…も?

どうも! 諸葛菜です。

前回から随分間が空いてしまいました。 丁奉です。

丁奉 part1 孫権から孫皓まで仕えた水陸両用の呉の名将!

[caption id="attachment_2023" align="aligncenter" width="257"] wiki丁奉より[/caption]

 

国賊孫綝を誅殺!

登場回は演義113回。

呉では孫亮が孫ちんによって廃され、孫休が新皇帝となりました。皇帝を廃したものだから、孫チンはますます増長し、悪行三昧。

孫休は孫ちんの持ってきた、祝の品(酒・肉)を拒否しました。 これに危機感と怒りを感じ、孫ちんは自分の弟や腹心に武装をさせ、武昌に出張らせます。

張布はこれを孫休に密奏し、孫休は大仰天。

そこで丁奉を召して、このことを告げました。丁奉はすぐに計略を思いつきました。さすが、ベテラン、頭の回転が早いです。

「臣に国賊を除く計略がござります」

「明日の宴席に孫ちんを呼び寄せ、あとは臣がよしなに取り計らいまする」

聞いて孫休はいたく喜びます。丁奉、まだ何もしていないけれど、一読者として後期呉の重臣の太鼓判を押したかのようなこのセリフには安心できます。

このあと、羅貫中独特の死亡フラグ(いきなり転ぶ、天候が荒れるなど)の兆候が現れますが、孫ちんは宴席に出席。孫ちんは張布にサックリと片付けられますが、丁奉とその配下魏邈(ギバク)、施朔は孫ちんの孫チンの弟どもを確保。

丁奉の活躍が数行で片付けられていますが、弟達を捉えるほうが大変だったはず。なんせ軍勢を持っていたので武闘派の丁奉たちでないとできない仕事だったんでしょうね。

その後、第117回で、蜀の救援に向かいますが、滅んでしまったので、活躍はなし。第120回あたりで、丁奉すでに亡く。とありました。

 

孫晧廃立計画、孫晧から疑惑を抱かれ…

ウィキを見てみると、このあともいろいろドンパチあったようです。

孫休が死去すると、万彧の勧めで孫皓の擁立が持ち上がり、丁奉も濮陽興達と図ってこれに同意した。孫皓の即位後に右大司馬・左軍師に任じられた。 266年12月、陸凱が孫皓の廃立を計画すると、丁奉も丁固と共に加担した。孫皓が廟に詣でるときを狙っていたが、警護役を務める左将軍の留平の協力が得られなかったため、実行することができなかった(「陸凱伝」)。孫皓の警戒心が強かったことの他、丁奉と留平が不仲であったことが一因だったという(「陸凱伝」が引く『呉禄』)。 268年、秋9月に孫皓は東関に軍を進めた(「三嗣主伝」)。丁奉孫皓合肥攻撃を命じられ、諸葛靚と共に軍を進めた。このとき、丁奉は晋の石苞に偽りの手紙を送り、武帝に疑惑を抱かせた。そのため石苞は召し返され、免職にされた。 269年、丁奉は徐塘を修復し、晋の穀陽を攻撃した。しかし、この攻撃は穀陽の住民に予め察知されていたため、丁奉は何の戦果も挙げることはできなかった。孫皓は怒って丁奉配下の導軍を斬った。 271年、万彧が丁奉と留平に対し、孫皓を見限るような発言をした。これを知った孫皓は、万彧と留平に毒酒を送るなど迫害し死に追い込んたが、丁奉に対しては何の咎めもなかったという(「三嗣主伝」が引く『江表伝』)。 271年に死去した。官位が昇進するにつれて傲慢な態度が目立つようになり、死の翌年には孫皓に対して讒言する者がいて、生前の軍事行動での失敗を理由に、丁奉の遺族は臨川に強制移住となった。 弟は後将軍となったが、丁奉より先に亡くなった(「三嗣主伝」)。

参考:丁奉のウィキリンク

つぶての名手でもあったんですね~。

これを読んだら、曹操配下の悪来典韋を思い出しました。 横山三国志で、曹操がモブ兵士たちに追われていると、典韋一人が立ちふさがり、投げナイフだけで10人以上を追い返したシーンを思い出しました。

「10歩敵が近づいてきたら、俺に伝えろ」

茂みに隠れた曹操軍兵士が叫ぶ。

「10歩です!」

ザクリ

「10歩っ!」

シャクリ

「10歩」

ずぶり

投げナイフを投げまくって曹操を守った典韋。痺れました。

なんか話がそれましたが、丁奉の民間伝説です。以下。 民間伝説ではつぶての名手とされる。諸葛亮丁奉らの元から逃げる際、腰に提げていた袋の中から鉄のつぶてを取り出して、諸葛亮の船の帆柱に照準を合わせて腕を振り上げると、空気を引き裂くような音がして、黒い塊が帆柱の先目掛けて飛んでいき、帆を引っ張る滑車に命中し、帆が落ちて諸葛亮の部屋の上に覆い被さった。趙雲は慌てて槍先でその帆を除けて諸葛亮を救い出し、船を捨て岸に上がると東南の方向に逃げていった、という話がある。今でも廟に祭られている丁奉の像には、ふたつの鉄のつぶてが握られている。