諸葛恪 part2 山越族を平らげた手腕が演義に書かれていない(涙)

 

どうも。 諸葛菜です。

諸葛恪part2いってみよー!

参考記事:諸葛恪 part1 エピソード満載だけど、評価になってねえ!?

参照:もう一つの『三國志』 ―演義が語らない異民族との戦い―

「人を人と思わない」 「細かい仕事はできない」

など、頭はいいのに、身内からは散々な評価をされた諸葛恪君。 でも、演義では触れられていないところで、成功を収めているのですよ。

 

山越討伐・平定の巻!

呉は、長年王化に服さない山越族に手を焼いていました。 首都建業の丹陽周辺は山が険しく、山越の兵は強く捉えることが出来なかった。 諸葛恪は自ら地方官となり、3年以内に4万の兵を手に入れて見せると豪語。 人々は、諸葛恪の意見に反対。

なぜなら、丹陽の地勢は厳しく、広い。奥地の住民は、武器を持って山野に潜んでいて、その上、鉄や銅を算出するので、武器も発達している。戦を好み、気力も盛ん。蜂のように群がり攻めてきたかと思えば、すぐに鳥のように四散して、山へ逃げる。とても手に負えないから止めろと周囲に反対されます。

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諸葛恪はこのとき32歳。234年のことであった。

諸葛恪は丹陽に着任。境界をしっかりと守り、部隊を編成し、良民をまとめて住まわすよう命令した。さらに、穀物が実ったころを見計らい兵士に収穫させる。山越が前年の穀物を食い尽くすと、また山から下りてきた。

しかし、すでに呉の兵士に収穫されているし、良民は兵士に守られているので手が出せない。こうして、彼らは飢えに迫られ、山から下りて帰順。兵糧攻めですな。

 

厳格なお触れで山民族を懐柔?からの徴兵

さらに、諸葛恪は、

「彼らを慰撫して周辺の県に移住させよ。彼らを疑って拘束することはならぬ」

と触れをだした。 臼陽の県長が、降服してきた以前からの悪民周遺を捕縛し、諸葛恪の元に送り届けた。 しかし、拘束してはならないとの触れを破った県長を処刑。降服してきた者を差し出しただけなのに・・・諸葛恪人気の道具に使われました。

「人を人とおもわぬ(略)」by陸遜

山越たちはこれを聞いて、続々と山を降りてきた-。その中から4万人の壮丁を択び、1万を自分の兵とし、3万を諸将に分け与えた。

このやり取りを見ていると、どうも山越民族とは言葉が通じないようですな。山越民族にとっても、住み慣れた故郷から引き離され、兵士にさせられるなんてとんだ災難。この本を読んでいると、三国時代の異民族が気の毒に思えてきます。

おまけに臼陽の県長さんも超気の毒だ・・・。ともあれ、大功を立てた諸葛恪は孫権から威北将軍に任じられます。

その後の245年、陸遜が死去、252年には孫権が死去。誰に太子を補佐させるかでずいぶん悩んだようですが、他にめぼしい者がなく、諸葛恪に託します。

そして、魏の大軍が南下・・・!!∑(゚Д゚)諸葛恪、いかにして防ぐか!?さて、それは次回で!∑(゚Д゚)