羅憲 演義には出演しなかった名将

どうも!

諸葛菜です。

羅憲将軍をしっておるかあ!?

luoxuan

羅憲(生年不詳-270年)

私がこの武将を知ったのは、坂口和澄さんの三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所 (平凡社新書)を見てからです。

サブタイトルがたまらねえ!(゚Д゚) 先日の記事を書いた後、勢いで購入。 こんな熱い武将が、なぜ、三国志演義に登場しなかったのか・・・全く解せぬわ!ヾ(。`Д´。)ノ

羅憲の項は上述の著書、205頁。サブタイトルと同様のタイトルです。 亡国は男の意地の見せ所。

「この男を描くために、坂口さんはこの本を執筆したのかっ!?」

と思ってしまうほどの熱さです。

 

羅憲、字を令則。 13歳で巧みな文章を書く。 呉に二回使いして、呉の人に応対の才を称賛された。

264年董允の死後、宦官の黄皓劉禅におもねり、政治に介入。 多くの武将、官人が黄皓にへつらう中、羅憲は独り黄皓に同調せず・・・巴東へ左遷された。黄皓気に入りの閻宇が巴東の郡督になり、羅憲はその下で働いた。

鄧艾・鐘会が蜀へ侵攻した際、閻宇は召還され、羅憲は2千の兵で永安を守ることに。 大群が攻め寄せているのに、2千で守れなんてむちゃくちゃ。 こういったことを、平気でできる蜀の朝廷を見ると、その腐敗っプリは眼を覆うものがありますな。

劉禅は魏に降服。 これを好機と見たのが、かつての同盟国の呉。 火事場泥棒根性全開で永安へ侵攻する。

羅憲はこれにぶち切れ。蜀漢が落ちたのに、呉は長く存続できるはずが無い。絶対に呉に屈しないという覚悟で迎撃体制を整えた。羅憲は決死の防戦中、自分の子供を人質として送り、司馬昭へ援軍を頼んだ。

6ヶ月経っても援軍は来ず、部下たちは脱出してはどうかと提案する。 「人の主たる者は民衆に仰ぎ慕われている。危急に際して彼らを見棄てるようなことは、君子のやるべきことではない。今は一命を終えるときだ」 この男・・・熱すぎる! すでに、蜀は降服しているのに、ここまで徹するとは・・・。 それにしても、たった2千人で守りきっているなんて、魏のカク昭を髣髴させます。

「敵に囲まれた時、百日の間立て籠もって援軍が参らずに城を明け渡しても(略)」

このカードを切らなかった羅憲は立派です。

魏の援軍が到着したため、呉はやむなく退却。 羅憲は無事、永安を守り通しました。 羅憲にとっては、蜀が魏に滅ぼされたことよりも、呉の不義の方が相当頭にきた様子。

その後、羅憲は昇進し、司馬炎から蜀の人士の中で。任用に適する人材を挙げるよう命じられます。 諸葛亮の孫諸葛京、大将軍費イの息子費恭ら10名を推薦。 羅憲のような筋が通った漢は、三国志の後半では少なかったので、もっと取り上げて欲しいですね。 妄想~~~~~~~~~~~~~~~~ 永安ではなく、諸葛瞻らと共に綿竹関に籠もっていて欲しかったなあ。

孔明の息子ということで指揮をとっていた諸葛瞻が戦死。 息子の諸葛尚が、捨て身の突撃をかけようと周囲の反対を押し切ろうとした時、

「バカヤロー!そんなのでお前の親爺が喜ぶと思っているのかあ!?」

と、羅憲が尚の横っ面をぶん殴る。

「殴ったな・・・!親爺にも殴られたことっ(略)」

殴られた尚が羅憲の男気に惚れ、その指揮に従うというベタな展開に。羅憲が綿竹の総大将となり、手堅く立て籠もる。 関門がぶち破れる寸前に、太子劉ジンの援軍が駆けつけ、鄧艾軍を撃破。

以上・・・妄想でした。