杜錫 「針のむしろ」の語源は、俺のケツっ!!

どうも!

諸葛菜です!

今回は大物武将の息子、杜錫です! 肝心の杜預の記事は書いていないんだが・・・(汗)。 まあ、番外編だから、そんなことは気にせずにLet's地味編。 杜錫(どしゃく)

字は世嘏。杜預の子。

杜錫は若い頃からすでに盛名があった。初めて任官したのは、長沙王司馬乂の文学官であった。また、太子の中舍人(舍人は属官、おそらく「モブ」ですな)も歴任した。

杜錫の個性は明るくて実直、忠烈であった。常に当時恵帝の太子である司馬遹(司馬イツ)に対して諌言をしていた。言葉は懇切であったが、太子は杜錫を嫌っていた。

それから、太子はなんと、こっそりと杜錫の据わる座椅子の下敷きに針を隠したのである。杜錫は知らずに座ったら、お尻から出血!(どうか杜錫の虎牢関にぶっ刺さっていない様に…!)

このことが、「如坐針氈(針のむしろ)」の語源になったといわれています。 それにしても大丈夫か?杜錫のお尻(汗)?(^▽^;) で、意地悪な司馬イツは、

「この前・・・何か起きなかったか?」

あたりめーだろっ!針でケツを掘りやがって!

「いえ・・・酔っ払っていたので覚えていません」

これを聞いた太子司馬イツは面白くなく、難癖をつけました。

「貴様は人を責めるのが好きだが、どうしてそうやって自分で面倒を起こすんだっ!」 もうむちゃくちゃww。 それから、後、杜錫は衛将軍となり、府中の長史となった。

300年、趙王司馬倫が簒奪を行うと、彼の治書御史となった。

当時の権臣孫秀は、杜錫と交友を求めたが、杜錫は拒絶。孫秀はこれを恨んだが、杜錫が高位にあるため危害を加えることが出来なかった。

306年、恵帝が再び帝位に返り咲くと、杜錫は吏部郎・城陽太守に任じられたが、これを受けなかったため尚書左丞となる。

48歳まで生きた。

杜錫の孫娘の杜陵陽(321-341)は司馬衍の皇后となった。

ふーっ。 訳したぜえ・・・と思ったら、

ウィキに載っていやがった・・・!?しかもほとんど同じだぜェ・・・。

知らなんだ・・・。

ウィキを中国語サイトが中国語に訳したのか、そのまた逆なのか・・・?

まあいいや・・・杜錫をよろしくっ!