文鴦の評価が中国ではかなり上がってきている?!

どうもっ!

諸葛菜ですっ! 中国のサイトを覗いてみると、文鴦がやたらと高評価です。

もちろん、日本の三国志ファンにとって、いや、文鴦を知っている人なら、悪くない武将として印象に残っていますし、武力も有り、つい最近は三國無双7にも登場して人気と知名度が一気に上がったのではないでしょうか。

三國無双7の文鴦、かっこいいですよね。

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三国時代に舞い降りた白銀聖闘士のようです。

「ほう。文欽には過ぎた息子だな」

司馬師もさり気に文欽へジャブを入れています

三国志演義における文鴦の活躍については以前書いたとおりです。

文鴦 part1 蜀の趙雲に匹敵する武勇。そして、悲劇の猛将…! 文鴦 part2 蜀の趙雲に匹敵する武勇。そして、悲劇の猛将…! その後は晋に仕え、優秀な武人としてその腕をふるいました。

270年、呉が腐臭を放ちまくっている時代。鮮卑の禿髪樹機能が涼州で蜂起し、晋打倒を目指し立ち上がりました。 この勢いは支えきれず、現地で防戦にあたった武将胡烈、蘇愉、牽弘、楊欣らが相次いで戦死してしまったので、司馬炎は夜も安心して眠れないほどに。

そこで立ち上がったのが文鴦。秦、涼、雍州の三軍を集結させて、禿髪樹機能を敗走させ、20万人の捕虜を得ました。

 

277年、これにより、文鴦の威名は再び天下に鳴り響きました。

この後、馬隆も討伐に行っているんですよね。どうして文鴦は行かなかったんだろ?

馬隆 王凌を弔った義人!鮮卑の鎮圧で功績を上げた良将!

馬隆 part2 鮮卑との戦い!勝利の鍵は磁石にあった!

とにかく、文鴦の職位も上昇したのですが、司馬炎と面会した際、司馬炎からは気に入られず、口実をつけられて免官させられたそうです…。

司馬炎崩御、恵帝司馬衷が即位した後は、賈南風が政権を握り、太傅楊俊が朝政を握っていた。このため、汝南王司馬亮、楚王司馬瑋が立ち上がり楊俊一派を誅殺。

東安王司馬繇が諸葛誕の外孫であったため、以前、文鴦が諸葛誕に歯向かった事を根に持ち、文鴦は楊俊の一派であったと誣告した。

  文鴦はこの誣告により一族を根絶やしにされてしまったのでした。

  さて、中国サイトでは文鴦が人気です。

三国志演義では無双ぶりを発揮して趙雲に比べられたりと三国志後半の数少ない超武闘派です。

趙雲だけでなく、中国サイトでは呂布関羽張飛などと比べられています。 ほとんどがどこかのサイトのコピペばかりなので、ろくなのはありませんでしたが、あげてみます。

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三国志演義で、猛将趙雲は長坂坡の戦いにおいて50名の曹操軍の武将たちと戦った。しかし、大半は一騎打ちであったし、最後は張飛にバトンタッチしている。文鴦は夜通し戦った後、武勇に優れたトウ艾と50合以上戦い、最後は数百人の魏の武将たちの追撃を追い返した。しかも、武将たちとの戦いは一騎打ちではなく、1対多であったのだ! 「ネズミども!命が惜しくないのかっ!」の一喝で腰を砕いたし。 長坂坡の曹操軍は5000騎程度だったが、この中に50名の名将がいたのだろうか?

淮南を平定するために司馬師が連れてきたのは40万の大軍である。どの時代にも武勇、智謀に長けた武将はいるものだが、それを発揮するのは戦場しか無い。三国後期は、武将、官吏は世襲化してきたため、武人として功を立てるために、必死になっているものが多かったはずだ。

だから、文鴦を追っていた者達は手練であることに加え、功名心にはやりまくりな連中だった。武将一人ひとりの戦闘力も長坂坡の時よりも高かったのではないだろうか。

一騎打ちだけでなく、一度に大勢を相手にし、趙雲のように逃げたのではなく文鴦はヤル気満々だった。 しかし、趙雲は子供を抱いていたのでそこは考えて上げる必要はあるけど。

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まあ、趙雲と比べていちいちあーだこーだと言うことも無いと思いますが、中国での文鴦人気は、今後、三國無双シリーズが出る度に人気が増していきそうですね。

ほかのサイトでは、呂布典韋よりも強いだとか、スタミナFullの状態でトウ艾と戦っていたら、トウ艾を瞬殺していた、などと言われています。 演義は創作なので、解釈が思いのまま・・・というのも魅力の一つです。

とにかく、演義での文鴦の強さ以外に、そのスタミナは驚嘆ですなっ! 私も文鴦は大好きです^^;!