黄皓 蜀漢最狂の宦官 劉禅股肱の佞臣

どうも!

諸葛菜です!

今回は黄皓でございまするよ。。。

三国志演義後半では、あまりにも有名で、あまりにも雑魚キャラ過ぎて…あまりにもダメキャラ過ぎて…歪んだ権力に対してすごくハングリーで…。 三国志演義本編での活躍を書く前に、黄皓の概要を。

蜀漢滅亡のS級戦犯

後主劉禅の宦官、自分の利益のために私党を作り、政治の腐敗と崩壊を招いた男。いや、男ではない宦官かっ!!( ゚д゚)

直接的に蜀漢を滅亡へと導いた宦官である。

黄皓の出身身分は低くかったが、彼がいつ宮仕えをし始めたのか史料には正確に記載されていない。彼がいかに狡猾で、悪知恵が働き、他人の歓心を自分に向けさせるための能力に長けていたかが伝わっている。 このため、劉禅と意気投合し、堕落のゴールデンコンビが誕生した。 黄皓に関する資料は中国語のものが多かったです。それらをつなぎあわせて翻訳してみました。

 

宮中の2本柱が亡くなるまでは猫かぶり

244年、大司馬の蔣琬(ショウエン)の病が篤くなり、執政は費褘(ヒイ)並びに董允に託された。董允は、黄皓という人間は劉禅の身辺に置くべきではないことを早くから察知していた。このため、董允は厳しい口調で劉禅を戒め、同時に黄皓に対しても後主をたぶらかさないよう度々警告していた。

費褘 蜀の四相の一人 剛胆な蜀の重臣

黄皓にとって、董允は天敵であった。董允在世中は彼の言う事におとなしく従い、分を守り、黄門丞となった。

245年12月、蔣琬が亡くなった後、董允もこの世を去った。このため、侍中の職が空席となってしまった。費禕は蜀宮において有能なブレーンだったが、彼の一生の中で、後世において最も批判浴びてしまう決断をしてしまった。それは陳シを抜擢してしまったことである。

陳シは確かに有能な人材ではあった。しかし、董允のような剛直さがなかったと言われている。

董允 後半では名前のみ…蜀の剛直な名宰相です。

 

陳祗とタッグ編成!政にも介入!

黄皓は陳シと共闘し朝政を掌握してしまった。

多くの文官を自分の味方につけ、支持を得るようになってから、宦官である黄皓は朝政にも頻繁に口出しをするようになった。

黄皓&陳祗が表舞台に立ってから、手始めに行ったことは、董允の悪口を後主劉禅に吹きこむことだった。そのかいあってか、劉禅董允を深く恨むようになっていった。

黄皓はまた、自分と不和であった劉禅の異母弟である劉永をも貶めた。 劉禅の御前で劉永の悪口を吐き、劉禅黄皓の言うことを聞いてしまい、以来10数年、劉禅劉永は顔を合わすことはなかった。

 

昇進!そして、朝政掌握!気に入らない奴はガンガン左遷!

258年。黄皓は車都尉兼中常侍に昇格した。 車都尉の職は2000石の俸禄を得、皇帝の馬車を管理することができ、中常侍の位では政治に関わることもでき、顧問的な役割も果たすことができた。 つまり、黄皓は皇帝が物事を決定する時に、いつでも意見が述べることができるようになったのである。

これより、黄皓の政治への容喙はますます激しくなっていく。 259年。陳シが死去。 この時、黄皓の勢力は侮りがたいものとなっており、劉禅黄皓の言うことならなんでも聞いた。多くの人間が権勢者黄皓に取り行っていたが、黄皓とは一定の距離を取り、衝突を避けていた者もいた。郤正や樊建(はんけん)らである。

樊建(はんけん)! 董允亡き後、董蕨、諸葛瞻らと後期…否、超末期の蜀の政界を支えた人物

剛直な羅憲などは反黄皓派であったため、黄皓に目をつけられた挙句、巴東太守を命じられ、実質的な『左遷人事』となった。

羅憲を僻地に追いやってしまうほど、人事においても権力を握っていたのだ。

羅憲 演義には出演しなかった名将

だけど、結果的には良い部分もあったけれど…。

 

蜀の滅亡。一時的に処刑を逃れる

262年。大将軍姜維黄皓を処刑するよう劉禅に上奏したが、当然却下。 劉禅黄皓など一宦官に過ぎず小物であるのだから、大将軍である姜維が気にする程ではないと姜維の上奏を退けた。 この後、黄皓を仕留められなかった姜維は、黄皓の勢力が強大であることに恐怖心を抱き、沓中に屯田し禍を避けた。

黄皓はこれを機に、姜維の代わりに閻宇を大将軍とするよう画策していた。

263年。魏の大軍が迫ってきていたが、黄皓姜維の上奏文を廃棄し、巫女を呼び寄せて吉凶を占った。巫女は蜀は滅びないと占ったので、劉禅はこれを信じてしまった。当然、文武百官でこれに異論を挟むものはいなかった。

 

魏との最終決戦で、諸葛瞻父子も戦死してしまった。

諸葛亮の孫である諸葛尚は、

「我々親子は国家の大恩を受けながら、早くに黄皓を殺すことができなかった…国家の滅亡を招き、人民に塗炭の苦しみを与え、これ以上生きて何になるかっ!」

と死の直前に叫んだという。 魏のトウ艾成都を制圧した際、黄皓を殺そうとしたが、賂を贈って処刑を免れたと書かれている。この後、史書からは姿を消している。

蜀の史料は多くなく、黄皓の具体的な悪事はあまり書かれていない。 黄皓の概要を中国語サイトを見ながらまとめてみました。 今度は演義での活躍を追ってみませうか・・・。 でも、こんなヤツの活躍なんて、これ以上見たくないか…多くの人がお腹いっぱいになっちゃったかも^^;