濮陽興 俺は丞相だあっ!…演義で出落ち!

どうも!

諸葛菜です!

演義後半の呉というと、出落ちばかり。

かと言って数が多いわけでも無し、出落ち武将を調べてみると、意外と中身があったり。要するに…演義では、「呉」が第三国扱いされて、あんまりなわけなんですな・・・。 さて、今回は濮陽興さんです。

 

演義での登場回は120回。

この回で初登場は死亡フ(略)。

孫休が病床。 床を出ることもできなくなったので、丞相濮陽興を宮中に呼び、太子孫ワンも呼んで挨拶させました。

その後、孫休は死去。

孫休 呉の皇帝。意外にもタヌキな面もありしたたか皇帝!孫チン兄弟を大掃除!

濮陽興は諸官と協議をして孫ワンを天子にしようとしたら、万イクが反対。孫皓を立てろといいます。

張布までが「孫皓が才識明断、帝王たるお方」と言うもんだから、濮陽興は心を決しかね、太后にも相談。

張布 孫休と共に孫チンを誅殺 孫皓を皇帝にした後は・・・

結局孫皓を立てることにしました。 孫皓は日増しに兇暴になり、岑昏を寵愛し、酒に惑溺。これを諌めて濮陽興・張布は殺されてしまいます。

ウィキを見ると…勉強は出来るそうですが、民を虐めていましたな。

260年、都尉の厳密という人物が丹陽で干拓事業を行うため、堤防を築くことを建議した。百官たちの多くは労力がかかるだけで田地が拓ける保障がないと述べたが、濮陽興は完成できると主張した。兵士や民衆を集めて工事が進められたが、結局莫大な工事費がかかり、多くの兵士が死去、自殺者も出たので、人々はこの工事を怨んだ。

保障もないのにゴリゴリやったのか・・・。

まもなく濮陽興と張布は、孫皓を帝位に就けたことを後悔するようになり、万彧によって讒言されることとなった(「三嗣主伝」)。同年11月、濮陽興は朝会のために参内した際に張布とともに捕縛され、広州に流刑とされたが、刑地に赴く途中で殺害され、一族皆殺しとなった。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%AE%E9%99%BD%E8%88%88

最後は哀れでした。

なんだか、後期呉は疲れるなあ・・・。