鄭沖 三国志・三国志演義演義には登場しなかったけど、司馬炎・司馬昭に買われ内政面で大活躍!

どうも!

諸葛菜です! 今回は三国志演義には登場しなかったけど、魏の末期から晋の初期まで活躍した文官の大臣クラス、鄭沖をご紹介。この人は魏末から晋初期まで、律令の制定や学術研究に貢献した方です。

文系過ぎて余り表に出る機会がなかったのか・・・? というわけで行ってみましょ~!

zheng 鄭沖、字を文和。 生まれ持っての文官野郎!って字です^_^;

生まれは河南省開封

彼の家は貧しかったが、生活は清く正しく、いわゆる清貧の思想をモットーとし、余計な欲望は持たなかった。

鄭沖は経史の世界に浸るのが大好きで、儒教諸子百家に関する論文をよく研究していた。

彼の容貌は堂々としていて、所作振る舞いはすべて規範に則っており、美しいものであった。自分の本分を徹底して守る人であり、郷里の人から崇められることを望まなかった。そのため、彼は才覚はあったものの、郡の政府から特に推薦されることはなかった。

217年、曹丕が太子になった後、身分を問わず賢者を探した。この時、鄭沖はようやく魏の朝廷に目を留められた。彼は「文学」という職を賜り、その後は尚書郎及び陳留の太守となった。

鄭沖の人となりは寛容で学識深かった。太守になってからも生活は非常に簡素で、自分の資産を殖やしたりすることはなかった。鄭沖の行動は、人々の注目集め始めた。

239年以降、曹爽が実権を握り鄭沖は朝廷に呼ばれ従事中郎となり、その後は散騎常侍、光禄勲と昇進した。

251年12月、司空へ。

255年9月、鄭沖は曹髦が尚書を研究していた時、傍らで教授し、侍中の鄭小同とともに褒美を賜った。 翌年10月、鄭沖は司徒へ転任した。

263年司馬昭トウ艾鍾会を大尉、司徒とした。鄭沖は三公にあったが、政治に干渉することはなかった。

264年蜀漢滅亡後、司馬昭は鄭沖の意見を聞きながら、賈充、羊コらに律令儀礼の制定を命じた。 鄭沖がいなかったら新しい制度は整わなかったのではと、言われている。

司馬炎が皇帝となり太傅に昇格。

しばらくして鄭沖らは病気を理由に辞職を願い出た。 司馬炎はこれに応じることなく、再三慰留し、270年に彼ら晋を開国した元老たちを表彰し、官を辞すことを止めた。

273年、鄭沖はまた退官の希望を司馬炎に伝えた。 この時、司馬炎は鄭沖の意を叶えることとし、実家で静養させることにした。

また、司馬炎は鄭沖は詔の中で鄭沖のこれまでの功績を讃え、鄭沖に対する恩義を忘れないと書き送った。 274年、鄭沖は死去。

  以上…です。 三国志演義三国志には登場するにはちょっと縁の下過ぎましたかね^^; でも、こういう人がいるから国をまとめるための法制度などが整いますし、秩序ある(?)政治運営ができるのでしょうな。それと、こういった人材を発掘し、適材適所に配置する魏・晋の朝廷。司馬炎も大切に扱っていましたし、改めて魏・晋の強大さとゆとりを感じました。

呉は(カダフィ孫皓大佐の暴政で人材枯渇、軍民疲弊、将軍連中はモチベーションダウン。

滅亡前の蜀は、姜維の北伐で「ひーこらひーこらばひんばひんw」 朝廷内は黄皓ら佞臣がフィーバー、諸葛亮の息子の諸葛瞻はそれを見てブンむくれ。

上記二カ国は、余裕が無かったッスね^^;

知らなんだ…!