トウ艾 part1 魏の名将にして忠臣 カン丘倹鎮圧、蜀漢滅亡に大貢献!
どうも!
諸葛菜です!
いや~、やっとトウ艾を書くことを決意。 三国志演義後半の主人公クラスと言ったら、姜維、トウ艾ですよね!
抜群の武力と智謀で魏を支えた名将です。 三国志演義後半の第107回では、司馬懿のクーデターにより曹爽一派が処分されたため、亡命した夏侯覇から、
『気鋭の若者』
と、言われていました。 数々の兵書を読み、深く兵法に通じていたので司馬懿や蒋済よりその才能を認められていました。姜維にとって強敵になるであろうキャラとして位置づけられた瞬間でした。
ウィキペディアのトウ艾の頁では、演義以外の活躍も載っているので簡単に紹介。
潁川で陳太丘の碑文にある「文は世の範たり、行いは士の則たり」を読み、これに深く感じ入ったのか、トウ範、字を士則と名乗りました。だけど、一族に同じ名前を持った人がいたのでトウ艾、字を士載と名乗った…。
名前がかぶってしまったのですね…。
せっかく碑文を読んで何かを得たつもりが、身内に同じ名前の奴がいたからということで却下。トウ範のままだったら、運勢もよかったのでしょうか^_^;?当時の人気占い師、管路様に意見を聞いてみたいところです。
屯田民からのし上がるっ!
トウ艾は身分も低く、若いころは随分苦労したようです。 曹操が荊州を制した時(おそらく劉表の土地を奪い取った時)に故郷から汝南まで連行されて、そこで屯田民となりました。
12,13歳の頃から石苞とともに御者の仕事をし始め、そこで有能だと認められ、さらに苦学して魏の屯田を司る稲田守叢草吏になりました。
都に使者として赴いた際、司馬懿にその才能を認められ抜擢。尚書郎になりました。
魏では耕地面積を増やして穀物を蓄え、蜀・呉を滅ぼすための基礎づくりを行うことが大方針とされていました。トウ艾は、各地をまわり、『済河論』を書いて運河の開通を司馬懿に進言。司馬懿はすぐにトウ艾の案を受け入れ実行に移しました。
備蓄食料を殖やし、水害による被害もなくなったのはトウ艾のお陰です。 また、貧しい下級官吏時代は、周囲の人間からバカにされながらも「将来必ず役立ててみせる」と言って、任地に赴任した時にはすぐに自ら担当地域の詳細な地図を作成していました。
まずはカン丘倹あたりを屠って武功を!
さて、演義での活躍。
毌丘倹(カンキュウケン)が、曹芳を廃した司馬師に非を改めさせようと淮南で、文欽親子と共に義兵を挙げました。司馬師は鐘会とともに大軍を率いて、自ら討伐に当たりました。
この当時、トウ艾は兗州(エンシュウ)刺史でした。楽嘉を固め、カン丘倹、文欽軍を足止めしました。
同じく、楽嘉を固めていた司馬師軍は、文鴦の奇襲を受け壊乱寸前。文鴦は元々父親とともに司馬師軍を挟み撃ちにするつもりでしたが、親父の文欽は途中で道に迷ってしまい未着^_^;
親父が来るべき方角から来たのがトウ艾。薙刀を小脇に抱え、文鴦を怒鳴りつけます。
「逆賊、逃げるな!」
後世、趙雲子龍と並び称されることになる文鴦と一騎打ち。50合以上撃ち合いますが、決着はつかず。 味方の軍勢が文鴦軍を追い詰めたので、文鴦は退却。 お陰で司馬師軍は一命を取り留めました。
文欽は進路を変え、項城へ向かいましたが、トウ艾は胡遵、王基とともにこれを撃破。そのまま項城を包囲し、カン丘倹を追い詰めます。ヤケクソになったカン丘倹は城内から突撃を開始。トウ艾はこの軍と真っ向から衝突!
カン丘倹の配下武将葛雍をざっくりと両断!
トウ艾の手柄武将となり散っていった葛雍に合掌…。 これから始まる姜維との死闘と比べたら、この程度はトウ艾にとってまだまだウォーミングアップに過ぎない!
奇襲をしたものの親父が来なくて戸惑っていた文鴦相手とはいえ、互角に戦ったのは見事な武力です。この後、文鴦はたった一騎で魏の大将100人以上を退けていますし、トウ艾が来ていなかったら、司馬師の命もどうなっていたかわかりませんな…。 トウ艾の活躍はまだまだまだ・・・つづく!
トウ艾 part1 魏の名将にして忠臣 カン丘倹鎮圧、蜀漢滅亡に大貢献!
トウ艾 part2 姜維軍を手玉に取り、魏のスーパーエースに!