宗預 諸葛亮死後、蜀に対して下心をちらつかせた呉の孫権を牽制 外交手腕良し!

どうも!

諸葛菜です。

小国には武力も必要ですが、それ以上に必要といっていいほど、優れた外交能力、優秀な外交官が必要です。

蜀の「外交漢」宗預閣下ですっ!

zongyu

諸葛亮死後は蜀に激震が走りました。

蜀内部の内憂だけでなく、今まで同盟国で味方であった呉も蜀に対する態度が変貌。

蜀・呉国境である巴丘に呉の全綜が数万の軍勢を率いて来たのです。 もちろん、名目は蜀の救援ということなのでしょうが・・・孔明の死後にこんなことをされたら驚くに決まっています。

驚く後主劉禅。 早速蒋エンに諮り、王平張嶷に軍勢を与えて万一に備え、同時に孫権へ使いをやり、その真意を探るということになりました。

その任務に立候補をしたのが宗預。

「臣に仰せつけ下さりませ!」

「オメエっ!宗預!?!」

と、外野文官共は思ったでしょうな。 蜀は大黒柱の諸葛亮が死んだばかり。

蒋エン、費イ、董允らが朝廷を留守にできませんし、かと言ってふさわしい人物がいるかと言うと、めぼしい人はいません。宗預はその辺りの事情を踏まえ、自分しかいないと思って立候補したのでしょうね。もちろん、自信があってのことでしょうけど。 宗預は呉に到着し、孫権に謁見しました。 孫権以下、呉の臣下たちも孔明の喪に服するため、全員喪服を着るという徹底ぶり。他国の宰相をしっかりリスペクトしています。

しかし、嫌な見方をすれば宗預を油断させるための芝居かもしれません。 孫権は呉・蜀は一家同然であるのに、何故国境の兵を増員するのかと宗預に詰問しました。 「東が巴丘の守りを増せば、西も白帝の守りを増す、これは勢いのしからしむるところで、わざわざご下問になるにも及ばぬことと存じまするが」

と、宗預は答えました。

孫権は、

「そなたは鄧芝にも劣らぬ者じゃな」

と、笑い、巴丘の国境の兵を増員した理由は、諸葛亮の喪に合わせて魏軍が殺到するのではと思い、蜀を助けるための増員であり、他意あってのことではないと宗預に伝えました。

孫権は更に、矢を折って同盟を破ることはないと誓いました。 宗預はこの返答に満足し蜀へ帰国しました。

「呉主は丞相のお亡くなりになったのを知って涙を流し、臣下たちにも喪に服させております。巴丘に兵を増したのは、魏が虚に乗じて攻め入ることを恐れてしたもので、別に他意はござらぬ様子。決して同盟に背かぬとて、矢を折って誓いましてござります」

これを聞いた劉禅は大満足。 劉禅は宗預の功を讃えて厚く賞しました。

孫権もああは言ったものの、当然下心はあったことでしょう。 これを防いだ宗預。名外交官です。 247年、宗預は屯騎校尉に任命され、この時すでに車騎将軍になっていた鄧芝は江州から朝廷に召還されていました。宗預が兵を率いているのを見て、

「60歳を過ぎた人は兵を持つものではないのでは?宗預殿が兵権を持つのはいかがと…w」

とからかいました。 宗預は、

「あなたもすでに70を過ぎておられるのに兵権を返さず、私はまだ60を過ぎたばかり、どうして兵を持つのがおかしいのでしょうかな?」

とやり返しました。 トウ芝の性格は傲慢なところがあり、当時の大将軍でさえ彼に遠慮をしていましたが、宗預はお構いなしに接していたようです。

後、宗預は再び呉に使いに行きました。この時は友好訪問団としてです。

孫権は宗預手をとって落涙、

「そなたは毎回我が国を訪問してくれ、両国の友誼に大変貢献してくれた。今日、そなたも朕もお互いに年老いた。もう二度と会うことはないだろうなあ・・・」

と言って、大きな真珠を記念として宗預に贈りました。

250年、宗預は後将軍となり、永安を守備し、呉への外交大臣は樊建にかわりました。その翌年、樊建が呉を訪問した時、孫権はすでに病床にあり、会うことはできませんでした。その時、諸葛恪が代わりに樊建と接したので、孫権はその時の様子を聞きました。

樊建は宗預と比べてどうかと。

「樊建の才識は宗預に及びませんが、優雅さに置いては彼を超えておりました」

256年、宗預は征西大将軍となり、二年後彼は病となり成都に帰還しました。その後、鎮南大将軍を賜りましたが、軍事では姜維廖化張翼、董蕨、胡済が権力を握っており、朝廷の政治は諸葛瞻が主に握っていました。

ある日、老将廖化が宗預を誘って諸葛瞻を訪問しようとした際、

「我々は70を超えているのだから木のようにしておれば良い物を、なぜ構うことがあろうか。若いものが我々を訪問するべきではないかな?」

といったそうです。 263年蜀漢滅亡後は、宗預は現在の山西省へ移され、宗預と廖化は途上で病死してしまいました。。。

費イ、蒋エン、董允がなくなってからも郤正、樊建をはじめ、陰ながら斜陽の蜀を支えていたんですよね・・・。

蜀漢孔明死後から滅亡までの30年の間、(蜀が弱すぎてということもあるかも知れないけど)同盟国の呉が蜀を侵食しようとしなかったのは宗預達「名外交漢」達の活躍のおかげですよね。

戦の駆け引きの多い演義では表現し切るのが難しいでしょうけど、宗預たちは相当努力したんだろうなあ・・・。三国志前半の有名人物の派手な活躍も楽しいですが、この時代の地味キャラの地味な働きに最近感動しがちです^_^

宗預!宗預ヽ(^o^)丿!