楊宗 巴東の平和は俺が守るっ!蜀のいぶし銀、名将羅憲の参謀!呉の火事泥は許せねえっ!

どうも! 諸葛菜ですっ!

演義だけではあれなので、坂口和澄氏の三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所(相変わらずの安値w)を読み返してみました。蜀の名将羅憲の項を見ていたら、楊宗なる人物を発見。

良い感じのモブ臭です。 こいつは・・・調べなくちゃっ!

早速、ググってみたら、中国語サイトに情報が!

結構なげえなあ…。 パリパリ訳していくぜいっ!

蜀滅亡後の263~264年の永安攻防戦

楊宗は巴郡(益州あたり、今の重慶市ですね)の人。

蜀漢末期、尚書郎となり巴東太守羅憲の参軍となりました。263年冬、蜀漢滅亡時、呉の皇帝孫休 は歩協らを派遣し、蜀の領土を削り取ろうと画策。歩協は川をさかのぼり、侵攻してきました。

羅憲は沿岸に軍勢を配備して弓矢をいかけましたが、多勢に無勢。数万人の呉の大軍相手に、この程度では焼け石に水。ほとんど削れません。

羅憲 演義には出演しなかった名将

これより少し前は、黄皓のお気に入りであった閻宇将軍が太守となって守っておりました。羅憲は彼の部下として駐屯。当時は5000人の兵がおりましたが、その内の3000人を閻宇が持って行っちゃんたんですよね^^;。

てなわけで、羅憲は2000人の寡兵で呉軍と戦っていたのです。そんな大軍ですから、あっという間に永安城など包囲されてしまいました。用兵に長けた羅憲も踏ん張り続けましたが、このままではジリジリと落城を待つばかりです。かつての敵であった魏の陳騫のところまで、援軍を求めにゆくことを決意。その重大な任務を任されたのが楊宗です。

場外には呉の大軍がひしめき合い、脱出するのは至難の業。屈強の者どもをうまく統率し、重囲を突破できる良将、豪勇の士でなければできない仕事です。

羅憲「行ってくれるか・・・楊宗」

楊宗「それがし、一命に代えましてもっ!」

楊宗は屈強の者どもを率いて、北上!きっと、無双発動しまくったことでしょう。 どうにか陳騫の元までたどり着くことができ、半年後、魏の援軍が永安城に到着したため、呉の歩協、陸抗らは退却しました。

魏、来るの遅いなあ~!羅憲よく頑張った!

楊宗もすごい武将ですな。無理矢理燕王を自称したかっとび大王公孫淵閣下のように、途中でパクられなかったのでよかったです^^;。

この永安城攻防戦は、蜀漢滅亡時期(263~264年ごろの出来事です)

 

巴東の守護神として

266年、魏はすでに晋国となっており、楊宗は相変わらず巴東を守備しておりました。

この年、呉の武陵太守である孫恢(ソンカイ)が巴東の南浦へ侵攻してきました。しかもこの時、巴東太守の羅憲は洛陽へ出張中で不在^_^;。楊宗はこの時安蛮護軍という職についておりました。羅憲不在でしたが、楊宗は迎撃し、孫カイを撃退しました。

これをきっかけに、羅憲は楊宗を武陵太守とし、南浦に駐屯させました。とは言っても、当時の南浦荊州武陵の領域ではなく、益州荊州の接する地域で未開の荒野でした。

羅憲さん…、楊宗は功を立てたのに…これじゃあ、罰ゲームでは^^;? というツッコミは置いておいて。

この山地では漢民族は殆どおらず、五渓蛮夷と呼ばれている住民が大多数を占めていました。楊宗は武力を殆ど持ちいることなく、蛮夷を慈しみ、助けたのでこの地区をうまくまとめあげたそうです。これにより、この土地の3県を得て、住民の多くが楊宗の元に帰属しました。

 

良将軍だけど…酒にゃあ弱いっ!

270年、羅憲が病死したあと、巴東の太守として楊欣が着任ww魏の武将であったこと、また、姜維とも対戦したことのある武将です。楊宗も気を遣っただろうな~。

まあ、しばらくしてから楊欣は涼州へ異動しちゃいましたけど。晋の朝廷は唐彬または楊宗を晋・呉国境の最前線の重役を担ってもらおうと考えていました。

文立という側近が、

「楊宗、唐彬は国家にとって必要不可欠な良将軍でありまする。しかし、唐彬は金品に貪欲で、楊宗は酒好きであります。陛下、この辺をよろしくご斟酌くだされませ」

と、発言。

司馬炎は、

「財はある程度満たされれば満足がいく、だが、酒好きの性分は治らんだろう…」

ってなわけで、唐彬がメインの守将となりました。

楊宗さん、酒癖が悪かったのかな…^^;? でも、そんな人間臭いところも魅力の一つだったんだろうな~。

史書では呉平定前の武陵太守と呼ばれていましたし、評価も高いようです。280年に死去。呉が滅びた年ですが、この時、呉はまだ平定されていませんでした。

知らなかった!へえ~!と思ったら、ツイッター、なうとかで楊宗を爆散して、世に知らしめましょ~!!