諸葛亮孔明亡き後の蜀漢をざっと見てみよう!
どうも!諸葛菜です。
このブログでは、諸葛亮孔明死後の三国志を書いています。 結局晋が中華統一を果たしたけど、どんな形で三国時代が終了したのか簡単に紹介します。
Let's 北伐!
まずは孔明死後の蜀漢について
孔明の計略を実行し、馬岱が魏延を斬り、蜀軍は退却。支柱を失った蜀は次第に内側から崩壊し始める。性格的には問題があったものの、孔明在世中は雑用一般をこなし活躍した楊儀が憤死。
しかし、孔明死後も姜維、張翼、張嶷、廖化、董允、蒋琬(エン)、費禕(イ)、呉イら、孔明イズムを継承した猛者たちは魏討伐をあきらめてはいませんでした。 一方、蜀討伐に燃える魏は、曹爽を総大将に蜀へ侵攻。姜維らは力を合わせて魏軍を返り討ち。
曹爽は「まだ孔明の威光は生きている」と言って退却。
魏の侵攻を立派に防いでいました(喜)。 守るか、攻めるか。 朝廷内では魏討伐が議論になることがしばしばありました。
「諸葛亮亡きあと、蜀の軍事力、人材を見ても魏・呉にはかなわない」
「諸葛孔明ですら果たせなかった北伐を我々だけで行うのは無理」
「攻めは最大の防御!」
同盟国の呉も蜀に対して態度を変える
孔明死後、敵国の魏だけでなく、呉までも態度を急変させます。
「諸葛武侯亡き後、蜀を守らねば」
と蜀・呉の国境に援軍と称して派兵。 火事場泥棒的なことは起こらなかったようですが、それにしても魂胆見え見え。
蜀の領土が欲しかっただけ・・・違うかなっ?(怒)
三国志ゲームで言うと梓潼あたりを狙ってきたのでしょうか・・・。
支柱を次々失っていく蜀漢
時は過ぎ、董允、蒋琬(エン)が相次いで死去。 黄皓が劉禅に取り入り、宮中が絶望的に乱れ始めたのは董允が死亡してから。それまでは董允が劉禅に歯止めをかけていたようです。この頃の蜀にとっての朗報と言ったら、夏侯淵の息子夏侯覇が蜀に亡命したことでしょうか。
費禕(ヒイ)が魏の降将郭循に刺され死去。 器量よしの人材が朝廷にいなくなり、諫言する忠臣もなく、劉禅は酒色に耽りまくります。
一方、漢中に駐屯していた姜維は夏侯覇、張翼、張嶷、廖化らと度々魏の国境を襲う。
軍事力、国土、人材層の厚さ・・・全てにおいて勝る魏軍に蜀軍は消耗しまくります。たび重なる出兵に民も怨嗟の声を上げ始めます。蜀朝廷内の腐敗、度重なる遠征による疲弊・・・ 時至るとばかりに魏軍が総攻撃。鄧艾、鐘会が蜀に攻め入り、陰平の天険を越え、綿竹関に迫る。
蜀の前衛はたちまち潰えます。
私も参考にしましたが、蜀漢の末路は吉川英治「三国志」の巻末部分「蜀漢三十年」をご覧ください。 蜀ファンなら涙無しには読めない文章です・・・(泣)。
ざっとですが、蜀の衰退について書いてみました。 筆、訂正がありましたら、またマイナーチェンジさせていただきます。