陳騫 文武両道の良将 演義では目立たず

どうも!

諸葛菜です!

地味武将シリーズ、第うん十段、陳騫将軍です!

演義での登場回は111回、112回、119回

石苞や州泰などと登場して、数ある魏の武将のその他大勢の一人扱いです。完全なるモブ。 エピソードをあげるしか…方法がねえっ! 中国語サイトでチェックしてみたら、小さいエピソードが載っていました。

父を励ました陳騫

陳騫の父が劉曄に讒言され、曹叡から疎んじられたことがありました。 陳騫の兄の陳本は驚き、父に何も言えませんでしたが、陳騫は全く慌てませんでした。

「主様は名君でありますし、父上は名臣です。たとえ君臣の間で不和があったとしても、父上にとって損失といえるのは三公になれない程度です」

その後、曹叡は陳騫を今までどおり用いました。幼児から聡明であったし、処世術も心得ていた陳騫。

まさしく乱世に生まれた男。

文武両道

文武両道で功績を収め、ぐんぐん出世していました。 ここに書くのは面倒ですが、太守、なんたら亭侯、難たら軍事、なんたら都督…。 司馬炎即位後は、大将軍にもなり揚州の諸軍事を握っていました。

ウィキにも晋の陳騫が載っています。

270年、西晋の秦州刺史の地位にあった胡烈は、鮮卑の禿髪樹機能の反乱に遭い戦死した。この直前、陳騫が武帝に対し、胡烈と牽弘(涼州刺史)は勇敢であるが思慮分別に欠ける人物なので刺史の任は果たせないだろうという評価を伝えていたため、訃報に接した武帝は陳騫の言葉を用いなかったことを後悔したという。

賈充や石苞、裴秀といった股肱の臣の中でも、陳騫は抜きん出ていたようですね。武人だったので、政争を好まなかったそうで、賈充みたいな連中が幅を利かせる朝廷内では好感度も高いです。