王昶 演義では名前だけ だけど優秀な武将です

どうも! 諸葛菜です! 名前だけ出現した王昶(おうちょう・またはおうしょう)さんです。

王昶(生年不詳-259年) 王昶のウィキリンク 演義での登場は108回。

呉が北上した際、出兵。 東興郡での敗戦が分かってから、すぐに兵を退きました。

終了。

これだけです。 ウィキに丸投げしたくなる武将なんですよね(汗)。

だから・・・ウィキを読め!(゚Д゚)

何?

ウィキリンクを開くのが億劫? それじゃあ、ざっとまとめさせてもらいますぞ。

236年、司馬懿に推挙され、水軍の訓練、開墾など農業生産に力を入れた。

250年呉が二宮の変で疲弊していると主張し、呉征伐を上奏し、江陵を攻め、呉の朱績を圧倒。討ち取った敵の首を馬にくくりつけ、挑発。 わざと敵に追撃させるよう仕向け、朱績の配下モブ2将を討ち取るなど、内政だけの将軍ではなく、かなりの武者振りです。

252年諸葛恪北上の際は、戦わずして退却。 255年の毌丘倹(カンキュウケン)、文欽の反乱で活躍 257年の諸葛誕の反乱では朱績をけん制し、勝利に貢献。

259年没。穆公を贈られた。

阮籍と会った時、彼の人物の大きさに感嘆したという逸話が残っている。子と共に兄の子を養育し、慎み深くあるように訓戒を与え、名と字もそれに因んだものとした記録があるが、その際に魏諷のような謀反人だけではなく、旧知の郭奕(郭嘉の子)や建安七子の劉楨の人となりを批判した点が、裴松之により問題とされた。 優秀ですね。

サラッとしていて、突っ込めないな~この武将。 三国志7にも登場し、ステータスも結構高いです。 敵として登場すると割と厄介でした。

演義では王基や州泰などと行動を共にしていたので、王昶と同様の記事が続くとなると・・・(汗)。

そんなわけで王昶をよろしく!