董允 後半では名前のみ…蜀の剛直な名宰相です。

どうも! 諸葛菜です!

出落ちスパイラルはますます加速!無名、即退場、出落ちモブ…だけど今日は大物董允だぜい!

[caption id="attachment_1957" align="aligncenter" width="600"] wikiより董允[/caption]

董允(生年不詳-246年)

 

演義後半孔明死後、死んでた

演義第107回。 夏侯覇が蜀へ亡命。 姜維は、司馬懿が中央のごたごたにかまけている隙を狙い、北伐をしたいと費褘(ヒイ)に相談します。

が、

「近年、蒋エン殿、董允殿が相次いでなくなられ(中略)」

死んでる・・・。

ぬうう。またしても・・・!

演義では書かれていない、孔明死後の董允を書いてみましょう。横山光輝三国志では、魏延楊儀の仲たがいの仲裁役を命じられていました。結局、董允が到着したのは、魏延を殺してからなんだよね…。

 

公明正大な素晴らしい御方

孔明の出師の表の中で、費褘(ヒイ)、郭祐之と共に董允の名をあげています。

『宮中の事柄は大小の区別なくことごとく彼らに諮れば、必ず不備を補い、広く益するところがございましょう。もしも徳を高める言葉がなかったならば、彼らを誅して怠慢をあきらかにされますように』

董允の仕事は実直であり、公明正大な人格であったことが、諸葛亮に評価されていました。諸葛亮が南蛮征伐、北伐と不在の中、劉禅の素行や性格を相当心配していたことが分かります。

 

董允の仕事

・近衛の親兵の統率。 ・劉禅が美女を増やしたいとか、好き勝手を言ったらとめる。 ・宦官の黄皓を寵愛し始めた劉禅を抑える。

費褘(ヒイ)の次官にもなりました。

 

董允の死後

董允の死後は、黄皓らが台頭。劉禅を抑える人材がいなくなってしまいました。費褘(ヒイ)もいたけど、この後死んでしまいます。宮中の体制が崩れ、蜀の民は董允を大変慕っていたようです。 エピソード(ウィキより)

かつて父の董和は、董允とその友人の費禕とどちらの素質が優れているか判断しかねていた。ある時、許靖の子の葬儀に董允費禕(ヒイ)が一緒に参列することになった。この時ばかりと董和がわざと粗末な馬車を用意すると、董允はそれを嫌ったが費禕は平然としていた。これにより董和は、「二人の優劣が今日になってようやく分かった!」と言ったという。 また、費禕尚書令になると、朝夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊び戯れ、娯楽を尽くしながら仕事も怠らなかった。董允費禕に代わって尚書令となると、費禕の行いを真似ようとしたが、十日の間に政務が停滞してしまった。董允はそこで嘆息して「人間の才能・力量がこれほどかけ離れているとは」と言った。 一方で、費禕や胡済と宴会の約束をし、まさに出かけようとした際、年少で官位が低い董恢が表敬訪問に来た事があった。董恢は恐縮して帰ろうとしたが、「わざわざ来られた君との会話を捨て置いて、単なる友人との宴会に赴く事など有り得ない」と言って、外出を中止して対応している。蜀の人々は諸葛亮費禕蒋琬董允を「四英」「四相」と称した。

瀘州市江陽区に墓所があるそうですね。墓碑は既に壊れ盛土のみが残るのみですが、県級文物保護単位となっています。

地球の歩き方とかに載っているのかな? ついでがあったらいってみたいです。