歩闡(ホセン) 名前だけ出落ちだったけどいろいろあったんです!

どうも! 諸葛菜です!

今回は歩闡(ホセン)!呉のレオパルドンとは(略)!

歩闡(生年不詳-272年)

 

歩闡のウィキリンク 瞬間風速7mの出落ち将軍歩闡。

演義での登場回は打ち切り大詰めの第120回。 蜀が滅び、三国時代はついに晋と呉の一騎打ちとなりました。晋・呉の国境襄陽では晋の羊コと呉の陸抗がにらみ合っていました。

呉の陸抗は田畑を耕したり、狩をしてくつろいでいる様子。

その様子を羊祜(ヨウコ)の部下が報告。羊祜(ヨウコ)は笑って、

「そなたたちは陸抗をなんと思っておるのか。彼は智謀に長けた者で、先に呉主の命をを受けて西陵を抜き、歩闡(セン)とその部下数十人を斬った時には、(中略)」

おや?殺されてる? 歩闡(ホセン)とその部下って…?(;^_^A

「死落ち」は演義後半では良くあることだが・・・そんなバトルシーンは覚えがないぞ?

思わず第105回から第119回をもう一度読み返しましたが、影も形もありゃしねえ…。チャイニーズサイトを調べたら歩騭(ホシツ)の息子なんですね。

陸抗 三国志の名将陸遜の息子!三国志演義では羊コとのエピソードしかないけど…末期呉の柱石なんだ!

歩闡が殺された闘いの概要

兄の歩協の後を引き継ぎ、西陵督に。

272年、孫皓から繞帳督に就くために武昌に戻れとの命を受けた。地方に駐在していて、孫皓から「戻れ」という命令を受けた場合、もはや死の宣告ですね(汗)。

歩闡(ホセン)は失職もしくは処罰を受けることを恐れて晋に降服した。その際、歩協の子歩イク、歩璿(ホセン)を洛陽にやって人質とした。晋に降服後、歩闡(ホセン)は西陵の都督となり、衛将軍、儀同三司、侍中、交州の牧、宜都公となった。

呉への反乱の際には、羊祜(ヨウコ)、陽肇、徐胤の支援を受けた。

しかし、歩闡(ホセン)では陸抗にかなうわけもなく、羊祜(ヨウコ)は歩闡(ホセン)の劣勢を知り、兵を退いてしまった。歩闡(ホセン)は陸抗に討ち取られ、歩闡(ホセン)と三族は皆殺しとなった。

なるほど・・・そんなことが。 名将歩シツの息子が反抗して、陸遜丞相の息子の陸抗が退治した話をはしょるとは…羅先生の編集部もなかなか手厳しいですな。

わかりきったことですが・・・三国志演義では三国時代をカバーしきれないですね。まだまだ知らないことだらけです。これからも地味事件、地味武将をアップしていくぜ! 歩闡(ホセン)の兄歩協、甥の歩イク、歩璿(ホセン)もちょっぴり載っていたので、今度連打投稿してやりたいと思いますっ!