孟宗 パシリ出落ちっ!?と思いきやウィキではみっちりと書いてあったので丸々紹介

どうも!

諸葛菜です!

孫権孫亮-孫休-孫皓の時代を生き抜いてきた、出オチ武将孟宗だっ!

450px-哭竹得笋 上記の主君もそうだけど、実際は孫権-諸葛恪-孫チン-孫皓の激動の時代を生き抜いてきたから要領はよさそうだ・・・。

演義での登場は第113回。 孫チンの配下として働いていたようです。

原文ママ

数日の後、孫チンは中書郎孟宗に本営に属する精兵15000騎を授けて武昌に出張らせ、(略)

終了。

孫休を殺ろうとした孫チンに武昌まで行かされていました。 もし、孫チン兄弟と都にとどまっていたら、殺されていたかもしれません。

ウィキには彼の孝行ぶりがしっかりと載っています。

以下抜粋

孟 宗(もう そう、? - 271年)は、中国三国時代の呉の人。字は恭武。江夏の人。「二十四孝」の一人に数えられると共に、モウソウチクの名前の由来になっている。

生涯 [編集] 若い頃、南陽李粛の元で学問を学んだ。その際、母は厚く大きな布団を作ってやった。ある人がその理由を尋ねると、母は「わが子は客人を招くような徳はありませんが、学問を志す者には貧しい人が多いでしょうから、大きな布団を作り、素性が似た人同士で交友するようになるよう願ったのです」と答えた。孟宗は書を夜も忘れて読み耽り、李粛は彼を宰相の器であると評した。 その後、朱拠の軍吏となり、母を連れて軍営で暮らした。しかし志を得られず、住まいは雨漏りがしたので、孟宗は泣いて母に謝ったが、母は「今はただ励み勉める時です。泣くほどの事でしょうか」と言った。朱拠は彼の事を知るようになり、彼を塩池司馬に任命した。孟宗は自分で網を作って魚を捕らえ、魚の漬物を作って母に食べさせようとした。しかし母はそれを返し、「お前は魚を管理する官なのだから、私に魚を送ってきては嫌疑を避けられませんよ」と窘めた。 また、母は筍を好んだが、冬で筍の季節ではない時、孟宗が竹林に入って哀嘆したところ、筍が生えてきて母に食べさせる事ができた。これがモウソウチクの名前に孟宗が使われる由来とされる。 その後、孟宗は呉県令に昇進した。その頃、呉では孫権により、親が死んだ場合でも長官は後任が来るまで喪に服する事は出来ない事とされており、違反すれば死刑と定められていた。しかし孟宗は、母の死に際してその禁を犯して県令の地位を捨ててまで喪に服したため、拘禁され刑を執行されそうになった。陸遜が彼を助けるよう申し述べたため、孫権は孟宗の罪一等を減じた。 それからまた官に復帰し、太平3年(258年)には光禄勲になっており、孫チンらによる孫亮の廃位に加わっている。永安5年(262年)には光禄勲から右御史大夫に昇進した。孫皓が即位すると、孫皓の字は元宗であるため、孟宗はその字を避けて孟仁と改名した。宝鼎3年(268年)には右御史大夫から司空に昇進し、建衡3年(271年)に死亡した。

リンク元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AE%97

李粛が出てきたときは、てっきり呂布をたぶらかした董卓の子分かと思っちゃいました(笑)。

演義で1行登場、ウィキに情報満載ということで、そのままウィキを抜粋してしまったという手抜き記事でした。