滕胤 孫権から後事を託された 諸葛恪暗殺 孫チンの対抗馬 ご多忙武将

どうも!

諸葛菜です!

なんとか、呉の武将をひり出していきますぞっ!

滕胤(生年不詳-257年)

滕胤とは(ウィキより)

孫権は呉王になると、生前の滕冑の功績を考慮して滕胤をとりたて、都亭侯に封じた。外観は色白で、若くして行状や立ち居振舞いが見事であったため、孫権や群臣達から好印象を持たれ、20歳のときに公主を妻とし、30歳のときから丹陽太守・呉郡太守・会稽太守を歴任し、評判は良かった。 251年、重態となった孫権の見舞いに建業を訪れたとき、太常に任命されそのまま中央に留まった。252年の孫権臨終の際、諸葛恪や孫峻と共に後事を託された。

参照元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%95%E8%83%A4

親父が頑張ったからとはいえ、色白好印象で公主を妻とするとは結構なシンデレラボーイ。

 

さて、

演義での活躍は第108回。 111回には死体となって登場。 この間に何があったか書かれていません(汗)。

諸葛恪が魏との戦いで惨敗。 恪めは過失を全て部下のせいにして、斬首、島流しの刑を連発。多くの人はこの所業に不満を覚えていましたが、滕胤は黙っていませんでした。

諸葛恪に兵権を奪われた孫峻は諸葛恪をうらむことしきり。 おりやよしと滕胤が悪魔のささやきを・・・

「諸葛恪は大権を弄して無道の振る舞い多く、大臣を殺害して、不逞の心をも抱きかねぬありさま。貴殿は、天子のご一門に連なるお方でありながら、むざむざと見逃す法はござりますまい」

はっきりと、「殺っちまえ」とは言いません。 知名度の低い分家の孫峻にとって「天子のご一門」発言は、殺し文句です。やるなあ…滕胤。

「斬り刻む」とか「埋める」のは孫の分家連中の得意技ですし、そういう決断は連中に言わせます。

孫峻は「天誅を加えよう」と、期待を裏切らずに即答。 滕胤はにやりとしたり顔・・・。

この頃の諸葛恪は荒み気味でしたから、滕胤の気持ちも分かりますが、Kichigai孫峻と手を組むとは・・・色白美男子系はエグイこと考えるぜ・・・。

早速孫亮に奏上。

滕胤、 「陛下が席をお設けになって、恪めをお招きくださりませ。屈強の者どもを壁の裏にひそませておき、杯を投げるのを合図に席上で誅殺いたして、一挙に事を決するがよろしゅうござります」

宴会の日、諸葛恪は不吉な兆しが現われたので、馬車を家に帰そうとすると、孫峻・滕胤コンビが立ちふさがった。

孫峻「これは大傅なにゆえ(略)」

諸葛恪「お腹が痛むのじゃ・・・」

滕胤「陛下には、大傅がお帰り以来、絶えてご出仕も無かったので、特にご酒宴を設けられてお招きあったもの。また国家の大事をもお諮りありたいとの思し召しにござります。ご病体をおしてのご出仕が願わしゅう存じます」

と、二人とも殺る気マンマン(汗)。

諸葛恪を連行し、宴席で殺害。 孫峻は諸葛恪を粉々に斬り刻んで、下人の穴へ投棄。

これ以降、演義では滕胤の活躍はなく、第111回で名のみ再登場。

「丞相孫チンは、滕胤・呂拠・王惇らを次々ところして(略)」

と書いてあるのみ。

この間いったい何があったのか?坂口先生の真説その後の三国志を見てみましょう。

孫峻が病死する前、彼は勝手に丞相の職を孫チンに引継ぎ。これに怒ったのが、同じ顧命の臣である呂拠。呂拠は他の武将たちと連盟して、滕胤が丞相になるのがふさわしいと推薦しました。呂拠はすぐに滕胤に使者を送り、共に孫チンを「討ち果たそう」と持ちかけます。

滕胤はそれなりに人望もあり、勤務態度もよく信頼されていたんですね。

孫チンは、呂拠の動きを察知し、兵を出して牽制。 滕胤には、武将2名を派遣し、「呂拠を討つよう」命じました。

身の危険を感じた滕胤は上記の孫チンの使者2名を軟禁。 滕胤はこうした事態になっても、平素と変わらず日々を過ごしていたそうです。

城内の兵は、「むしろ建業まで打って出ましょう」と言いましたが、滕胤は宮城に攻め入るのを躊躇。孫チンの大軍が殺到し、結局滕胤とその一族が殺されてしまいました。

呂拠の軍勢も悪天候のため、動けず、滕胤を救援することが出来ませんでした。呂拠たちが勝手に滕胤を推薦したもんだから、完全に巻き込まれましたね・・・滕胤。

こんな事情もあって、演義第111回では死体になっていたのです。

諸葛恪殺害はあれでしたが、人望もあり、職務にも精励、胆も据わった武将であった滕胤。

この時代の呉にとっては、惜しい人材だったですな…。