牽弘 登場した時点でいきなり姜維に笑われたw!隴西の2世太守

どうも! 諸葛菜です!

どうにもいじれない瞬間風速1行未満の武将を拾うのは、なかなか厄介ですね。今日も1行武将の牽弘さん、逝っとくかあー!

[caption id="attachment_1793" align="aligncenter" width="600"] 百度牽弘より[/caption]

 

牽弘(生年不詳-271年)

 

姜維に鼻で笑われる

演義での登場は第116回。 鄧艾・鐘会が超大軍を率い、且つ辺境太守を召集して、姜維軍を攻撃するよう命じました。

牽弘は、王頎(オウキ)、楊欣、諸葛緒と一緒くたに登場して、あまりうまくない連携攻撃で、姜維をやや追い込みました。まずは王頎が姜維の前に立ちはだかりましたが、あっけなく蹴散らされます。続いて、牽弘がアタック。

「隴西の太守牽弘」と軍旗をかざすのは別に普通のことなのに、姜維がなぜか失笑。

「こんな奴らでは相手にならぬw」

牽弘のへたれぶりは、隣国の蜀まで知られていたのでしょうか。姜維の天水時代に牽弘との間に何かあった気がします。牽弘軍は姜維と交戦したと思ったら、すぐに10里程後退(汗)。幸い、鄧艾軍が来てくれたからよかったものの、単独だったらどうなっていたか分かりません。

諸葛瞻との一戦では、鄧艾の命令により、諸葛瞻軍の背後に回り牽制、勝利に貢献しました。

以上、演義での牽弘でした。

 

親父はすごかった!牽弘

彼のウィキリンクがあるのに驚きました。 名前だけ武将だからといって、簡単な記事にしようとすると、ウィキが思った以上に長くて再考しなければならないことがよくあります。

牽弘が隴西太守なんて胡散臭いと思ったら、親父の牽招さんはかなりの名将だったんですね。演義では登場はしないものの、鮮卑などの異民族征伐&統治で名を上げていますし、曹操からも信頼されていたようですね。

中身はさておき、その息子が隴西太守となっていてもおかしくはありません。

 

武勇はあったが負けてばっかし

ウィキにある陳騫と司馬炎のくだりも中国サイトに書いてあったし、牽弘の知名度が意外にあります(汗)。

鄧艾の死後は振威護軍任命され、西晋時代は揚州刺史となった。

270年、呉の大将丁奉がベン口まで攻め入り、牽弘は敗退。当時の大将軍陳騫は揚州の軍事を監督しており、牽弘は陳騫の命令に服さなかった。二人とも司馬炎に互いの悪口を報告しあっていた。

陳騫は、司馬炎に対し、

「胡烈、牽弘は共に勇猛ですが智謀なし、辺境を安定させることのできる人材ではなく、朝廷の恥となります。陛下はよくご考慮されますように」

と言われ、司馬炎はすぐに牽弘を涼州刺史に任命した。陳騫は嘆息し、「牽弘はそこで必ず負けるであろう」とこぼした。なにげに胡烈も指摘されているし…。

271年、北地の胡に金城を攻撃され、牽弘が討伐に出陣したが勇あって智謀が無いため、羌族の反乱を招き、青山で包囲され牽弘以下皆殺しにされました。

親父が優秀だったので、残念な武将ですね。智謀は無いけど、武勇があったぶんましだったかもしれません。姜維に笑われて蹴散らされていたから、完全な雑魚武将だと思っていました(笑)。