朱異 朱桓の息子 優秀な将軍だけど性格に難あり?

どうも! 諸葛菜です!

三国志演義を読んでいると、無能な司令官の下には悲しい出落ち武将が多いということが分かる・・・。とりわけ、孫チン、孫峻の元にはそれなりに能力があるにもかかわらず、手打ちととなってしまった悲しい武将が多い・・・。 それが朱異将軍だっ!

朱異(生年不詳-257年) 父:朱桓

父の軍勢を引き継ぎ、孫権からは「胆略があり、落ち着いている」と評価されていた。

孫綝総司令に随行し、魏軍と激突っ!

演義での登場回は第111回と112回。 諸葛誕が反乱を起こした際、孫チンと共に諸葛誕の救援に向かいます。朱異は唐咨と共に先鋒を務め、魏の先鋒王基と激突っ!

が、三合もせずして敗退。続く唐咨も簡単に蹴散らされ、散々に斬りたてられて総崩れ、おかげで50里も退くことになりました。

早くも諸葛誕反乱軍の中核である文欽、文鴦が出陣。

文鴦 part1 蜀の趙雲に匹敵する武勇。そして、悲劇の猛将…!

この回の〆でも、

「まさに、呉軍の腰が砕ければ、魏軍の強兵進み出る、というところ。さてこの勝負どうなるか。それは次回で」

と、完全に前座扱いにされてしまった朱異。

名誉挽回なるか・・・?

諸葛誕 狗と呼ばれた男…魏の皇室のために司馬氏に鉄槌を振りかざす!!

 

于詮の計略に乗ってみる

諸葛誕は寿春城に逃げ込み、呉軍は安豊というところまで下がって布陣していました。朱異はボンクラ総司令孫チンに呼び出されなじられます。

「たかが寿春ごときを救えぬようで、中原を踏み破ることが出来ると思うか!二度と負けて帰ってくれば、生かしてはおかんぞ!」

孫チンがあまりにもいけていないキャラなので、朱異ならこの死亡フラグは回避できると思っていたのですが・・・。朱異はすぐさま自陣に戻り、于詮らと協議。しょげ返る朱異を不憫に思った于詮は、朱異に献策。

「于詮君のはさみ討ちの計」

于詮・全端・全エキ・文欽らを寿春城に入城。 ↓ 魏軍が寿春城を包囲。 ↓ 朱異が包囲中の魏軍を背後から攻撃し、城内外から挟み撃ちにする。 Plan-Do-Check-Actionの手順を踏んで、早速実行。于詮・全端・全エキ・文欽らが入城したまでは良かったのですが、司馬昭はお見通し。

司馬昭は伏兵させて、朱異の背後を襲います。散々に斬りたてられて、孫チンのもとへ退却。

「そう負けてばかりおる大将なぞ、わしはいらぬ!」

哀れ朱桓の息子朱異。斬首の刑で終了してしまいました・・・。

Checkがあまかったな!∑(゚Д゚)

 

割りと能力の高い武将ではあった

しかし、ウィキリンクを見ると朱異は大活躍しています。

以下、ウィキより、

  1. 赤烏4年(241年)、朱然の指揮下で樊城攻撃に参加し、呂拠と共に城の外周陣地を撃破。
  2. 魏の廬江太守の文欽が砦を多数築き、そこに呉の降伏者を収容し、国境で略奪を働いていたため、朱異は二千の兵を率いてこれを打ち破った。 文欽w。所業が北斗の拳の雑魚キャラと同じw。
  3. 250年、文欽が偽の降伏を申し入れてきたが、朱異はこれを見破り、孫権に信用しないよう申し入れたため、孫権は呂拠に命じて大軍を率いて文欽の身柄を引き取りに行かせた。文欽は現れなかった。またも文欽。やることがせこっ!ちょこちょこ出てくるんだよな・・・。
  4. 建興1年(252年)、朱異は鎮南将軍に昇進した。魏が東興に侵攻してくると(東興の戦い)、水軍を指揮して魏軍の浮橋を破壊し、呉の勝利に貢献。
  5. 諸葛恪の魏侵攻にも参戦し、合肥新城が落城させられないことを悟って、軍を豫章の石頭城に転進させる建策をしたが、諸葛恪に拒絶された。朱異は怒りのあまり暴言を吐いたため、兵をとりあげられて建業に戻されたという
  6. 諸葛恪を倒した孫峻の軍事行動に参加し、また、256年、呂拠が謀反を起こすと、孫峻を継いだ孫綝の命令に従い、その討伐にあたった。

最後、魏の包囲網を突破できず孫チンに殺されてしまうところは同じですが、陸抗に止められているんですね。朱異は陸抗の制止も振りきり、孫綝は身内であるとしてその会見の誘いを疑うこともなく、捕縛されたときは猛抗議したが、そのまま絞め殺されたという(『呉書』)。

陸抗 三国志の名将陸遜の息子!三国志演義では羊コとのエピソードしかないけど…末期呉の柱石なんだ!

また、陳寿は、

「朱異を父の名を辱めない将軍と賞賛しつつも、呂拠と同様、性格的な欠点もないのに非業の死を遂げたことを時代の変化によるもの」と評しています。

・・・とはいえ、自分の意見が聞き入れないと暴言を吐いたりと問題がありそうな気がします。

呉の武将にありがちなそれなりの地位に着くと、凶暴化しそうなキャラです。