李勝 丁謐 畢軌 司馬懿に喧嘩を吹っかけた曹爽の取り巻き連

どうも!

諸葛菜です!

李勝、丁謐、畢軌曹爽を不良の道に引き込んだ、曹爽のイカ食客5人組の3人です。

李勝

父は後漢末の動乱期に、漢中の張魯に仕えた人物である。李休は張魯に王位(漢寧王)に昇るよう奨めたこともある。張魯曹操に降伏すると、李休も列侯された。 李勝は若いころに都に遊学し、風雅で才智があると評判があった。曹爽や夏侯玄らと親しく付き合い、後に「四聡八達」というグループの一員になるが、軽薄浮華を理由に曹叡(明帝)に官吏を解任されることになった。明帝が亡くなり、曹芳(斉王)の補佐として曹爽が政権を担当するようになると起用され、洛陽県令となる。244年、曹爽と夏侯玄が蜀漢征伐を計画すると、李勝もそれに賛同し、征西将軍である夏侯玄の長史となるが、大敗を喫する(興勢の役)。そのため、司馬懿からは快く思われなかった。 滎陽太守・河南尹を歴任して、いずれも治績を挙げた。河南尹としての仕事ぶりは、前任者の劉靖が法に厳格であったのに対し、法を緩めることにより、一時的に名声を得た、と評されている。河南尹の職にあって一年後に、凶兆が勃発している。まもなく荊州刺史に任命された。後漢以来の慣例では、本貫地の州刺史には任命されない決まりになっていた(三互法)ので、異例の人事であった。248年冬、曹爽に荊州刺史へ就任の報告を兼ねて、病気療養中として引きこもっていた司馬懿の様子を探りに行くよう命じられるが、司馬懿の芝居にまんまと騙されて本当の病人と思い込み、曹爽に司馬懿はもはや再起不能であると報告した。『魏末伝』によると、司馬懿が痴呆を装ったため、李勝は思わず涙を流したというが、その真偽は不明である。249年、李勝が荊州に赴任しないうちに、司馬懿がクーデターを起こして曹爽らは失脚、後に曹爽と共に謀反を企んでいたと李勝も告発され、三族皆殺しの刑に処せられた(高平陵の変)。

リンク元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8B%9D

 

丁謐

丁斐の子。台中三狗の一人。台中三狗とは、曹爽の取り巻き5人組のうち、さらに「下衆」呼ばわりされた三人。すなわち、丁謐、トウヨウ、何晏の三人のこと。はじめ鄴に住んだ。明帝のとき度支郎中として召された。斉王曹芳が立つと、散騎常侍となり、尚書に転じて、曹爽に重んじられた。眼中に人を置かない性格。人を人と思わない性格ですな。 身内以外の人々をしばしば弾劾し、貴人を侮蔑したので憎まれていた。正始十年(249)、司馬懿の起こした政変により処刑。 畢軌

才能があったため、そこそこの名声があった。明帝曹叡東宮にいた頃、共に学んでいた。黄初末、長史となった。明帝即位後、黄門郎となり家は栄えた。并州刺史、中護軍、侍中、尚書、司隶校尉を歴任。 曹爽の謀反に連座され処刑された。

演義での登場回は第106回。 李勝はともかく、丁謐・畢軌は名前だけ出てきたのみ。 これと言ったセリフも無く、曹爽バブルの時代にそれなりの役職に就いたことのみが記載されていました。 李勝の活躍と言ったら、司馬懿を見舞いに行ったこと。

曹爽が大権を握り、司馬懿を追い落とした後、曹爽は遊びほうける一方。 司馬懿をしばらく放置していましたが、気になったのか荊州行きが決まった李勝に様子を探らせます。

李勝は司馬懿宅を訪問。 そこには髪の毛もみだれた、病人を装った司馬懿が寝台に横になっていました。 李勝 「久しくお目にかからぬ間に、これほど終わるくなっていようとは、全く思いもかけませんでした。それがし、このたび荊州の刺史を仰せつかりましたので、お暇乞いに参上つかまりました」

司馬懿はとぼけて、 「Hey!州は北の胡にも近いゆえ、よくよく備えるがよいぞ」

荊州の刺史に任ぜられたので、へい州ではござりませぬ」

「おお、へい州から参ったと申すか」

漢水のほとりの荊州でござります」

「ははは、なんじゃ、荊州から参ったのか」

「大傅、いったいどうなされました?」

と李勝が問うと、

「大傅は耳が遠くなられたのでござる」

李勝は紙に自分が荊州に行くことを書き伝えました。この芝居に引っかかった李勝は曹爽に逐一報告。

そして、滅亡へ・・・。