陸抗 三国志の名将陸遜の息子!三国志演義では羊コとのエピソードしかないけど…末期呉の柱石なんだ!
どうも! 諸葛菜です!
ついにこの名将に手をつけちゃうぞ~!! 末期呉の柱石にして、三国志演義後半のスター武将…陸抗様だ!
[caption id="attachment_1029" align="aligncenter" width="500"] 百度:陸抗より[/caption]
「良し!ネット資料をコツコツ探そう!」
と、思っていたらウィキペディアで十分ですな^_^;
すんごい良くまとまっています。三国志演義後半の名将陸抗様の生き様を無料でここまで知ることができるなんて、すごいよね!陸抗様、陸遜のご長男かと思いきや次男なんですね。長男の陸延は早死しています。
陸遜の死後、孫権より詰問を受ける
陸抗の活躍は父親陸遜が亡くなってから。陸遜が亡くなった理由は、二宮の変に巻き込まれたからです。 耄碌した皇帝孫権仲謀が優柔不断になり、皇太子を決められなかったこと。跡継ぎの孫登が亡くなり、陸遜は当時の一般常識をもって孫和を推していたけど、孫権と意見が違ったためいろいろと問責されて、最後には憂死してしまいました。 最後の方は痛いっすね、孫権厨房。
この時陸抗は二十歳。 まだまだ遊びたい盛りの頃に、父の後を継ぎ建武校尉を授かったんです。
それと、父の兵5000を領した。
孫権は陸遜のことを許せず、魯王孫覇派の楊竺が陸遜に関する20条からなる疑惑を上奏したため、詰問の使者を陸抗に送った。陸抗はこの条文に関して、一条一条筋道を立てて説明し、孫権の陸遜に対する疑惑を解いた。
陸遜 呉のイケメン大軍師!最後はもうろく皇帝孫権様と対立…。
プチエピソード
ウィキにもありますが、きちっと筋道を立てるし仕事も出来る人ですよね。
柴桑に駐屯していた頃。 陸抗と諸葛恪が交代で柴桑に詰めていた。 陸抗は元の陣地を整備して諸葛恪に引き渡した。 諸葛恪は交代の時、陣地を荒れ果てた状態で陸抗に引き渡した。
諸葛恪w
「他人が使うから、後はどうでもいい」
某国人としては別におかしくない行動でしょうが、諸葛恪はさすが大物『恥じ入った』分だけ多少マシです。251年陸抗が病気療養中に、孫権から陸遜の件について謝罪を受けた。
「先だって、朕は讒言を信じ、卿の父君の信義を裏切ってしまった。卿に対しても、非常に申し訳なく思っている。どうか、送りつけた詰問の書簡を全て焼き捨て、人の目に触れぬようにして欲しい」
陸遜の面子を考えてのことでしょうが…ちゃっかり自分の汚点をも焼却しちゃおう…とひねくれて見てしまった。。。
陸抗の戦での活躍
1.魏の諸葛誕救援部隊に所属
魏の諸葛誕が司馬昭に対して挙兵した際、陸抗も援軍として参戦。 魏の偏将軍、牙門将軍などの雑魚モブ武将を打ち破り昇進。
2.朱異への忠告
呉の丞相孫チンが諸葛誕救援を名目に北上。 大将の朱異が連戦連敗したため、孫チンから呼び出しを受けた。すぐに死亡フラグを嗅ぎとった陸抗は、警戒するように忠告したが、朱異は聞き入れずに斬首された。この時は257年だから、陸抗は32歳か。比較的若い方でしょうし、総大将にはなれなかったのかな。
魏の武将は鐘会、司馬昭、王基、陳騫ら名将がゴロリ。司馬昭・鐘会コンビの悪知恵の前では、当時の呉の者共らでは転がされるのみ。于詮、朱異らがこの戦で死に、大敗を喫しました。
陸抗が総大将になっていたら、いくらか違っていたのかなあ…。でも、司馬昭・鐘会相手ではキツイかな。
次回の真三國無双あたりで「陸抗」を出してもらって、IFシナリオで諸葛誕救出、司馬昭・鍾会コンビフルボッコとか見てみたいですな!
というわけで、つづく!