盛沖 演義には登場しなかった皇帝孫休の師!!

どうも!

諸葛菜です!

盛沖って知ってる? 実はそれがしも最近知りました。

呉の人です。 後期呉の文官、主に学術面において活躍しました。 孫休が少年時代、彼の師であった。孫休が即位し、盛沖を学術顧問としたが、孫休が過度に張布を寵愛したため、盛沖はだんだん疎遠になってしまいました。

史実では盛沖について書かれた部分は非常に少ないです。 陳寿三国志の原文で裴松之の注に三回登場したのみ、すべて呉帝孫休に関することです。

247年、孫休13歳の頃、盛沖を師とし学問に励みました。孫休の教育係を仰せつかったことですから、孫権在世の折は、きっと孫権の身辺にいた人物だったのでしょう。

258年、孫休が即位してから、盛沖は博士となった。古今の学問に通じ、皇帝の諮問に答え、性格は極めて学術顧問といった感じでした。

同年12月、孫休は張布と密謀して丞相の孫チンと孫兄弟らを誅戮。 孫ちんに殺された諸葛恪のために再度きちんと埋葬しました。さらに人々は、諸葛恪の碑を作るべきだと言い始め孫休もその気になりましたが、盛沖はこれに真っ向から反対。

孫休はこれを聞きいれ、

「諸葛恪は夏の猛暑の時に無理に攻め入り、士卒を多く病死させ、なんの功績も上げることはできなかった。盛沖の意見に賛成だ」

諸葛恪のために碑を作ることは取り消しました。 孫休は読書が大好きで、韋昭、博士の盛沖らと学術討論をすることを好んでいました。

この二人は直言をするため、孫休の腹心張布は彼らが密告などをするのでは・・・と思い、理由をいろいろとこじつけて学術討論会をさせないよう画策し、韋昭、盛沖を孫休から遠ざけました。

そこは聡明な孫休。張布の意図などお見通しです。 しかし、最終的には張布の思い通りになり、韋昭、盛沖らは孫休と疎遠になってしまったんですね。。。