劉琰(リュウエン)夫妻 意外と古参の蜀の出落ち大臣

どうも!

諸葛菜です!

私もこの男をすっかり見落としていました。劉エン。 三国志演義の中でも気を抜ける部分で登場した輩ですから…。

妻:胡氏 演義での登場は第115回。

この回まで進むと、読者たちも劉禅のクズっぷりはよお~くわかっているのですが、羅貫中先生は、これでもかと更に劉禅の悪行をピックアップしてくれます。 (中略)話かわって、ここに後主(劉禅)は成都にあって、宦官黄皓の甘言にまどわされ、またも酒食にふけって、政事をないがしろにしていた。 羅貫中劉禅叩き。 光っています。

今回の主人公、劉エンさんの活躍を追ってみましょう。

大臣の劉エンの妻胡氏は生まれつき美しく、宮中に参内して皇后に謁見したところ、皇后は彼女をひと月ほど宮殿に引き止めてしまいました。劉エンは妻が劉禅と姦通したのではないかと疑い、兵卒500人を並ばせた上で、妻をロープで縛り上げ、兵士一人ひとりにくつでその顔面を何十回も殴らせました。

妻、胡氏は何度も気絶。 ひどい・・・。

劉エンたらいうクソ大臣も鬼畜。 劉禅はこれを聞いて怒り、係りの者に命じて劉エンの罪を定めさせようとしました。 こういう時は独断でスパっと劉エンを殺っちまえばいいと思うのですが、劉禅は変なところできちんと事務処理をさせますね。 「兵士に妻をなぐらせたのはよくない」 「顔を殴らせたのは良くない」 「斬首して市に晒すべし」

と、読んでみると棒読みな答申がありました。

劉禅は劉エンを打ち首とし、以来官僚婦人の参内を一切禁じました。 まあ、劉禅が鬼畜劉エンを打ち首にしたのはよしとしましょう。

ただ、劉禅自身が淫乱な所業をしていたので、朝廷内では、「自分のことは棚に上げといて…」という空気があったそうです。

以上、演義での話は終了。

ただ、ウィキを見てみるとですね。劉エンは234年に死んでいるんですよ。 しかも、劉備豫州の刺史時代に仕官していた旧臣だったんですねっ!意外です。

抜粋 劉備は彼が風流で言論に巧みであり、同姓だったこともあって、彼を賓客として遇した。214年、劉備入蜀後は固陵太守に任命された。 劉禅の代になると、都郷侯に封じられた。やがて、衛尉・中軍師・後将軍に昇進した。後、車騎将軍と昇進を重ねた。 しかし国政には参与せず、常に兵千人を領有するのみで、諸葛亮などの周りで批評や建議などを主に行なっていたといわれる。また、贅沢な生活を送っていたとする記述も多い。

リンク:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E3%82%A8%E3%83%B3_(%E5%A8%81%E7%A2%A9) この紹介文を見た瞬間、劉備が黄巾賊を倒した功績として県令を務めていた時に、地方巡回に来た督郵さんをなぜか思い出しました。

tokuyu

魏延と折り合いが悪かったため、諸葛丞相に更迭されていたんですね…。

演義だと、蜀滅亡ちょい手前だったのですが、この妻への暴力エピソードは、本来234年。孔明の死ぬ前後ですね。ただ、ウィキにある通り、劉禅の暗君ぶりを見せつけたいために、キング羅貫中が蜀末期に持っていったんですね^^;

いじるなあ…羅貫中