霍弋(カクヨク) 蜀、忠義の臣。けじめはしっかりつけてます

どうも! 諸葛菜です!

地味だけども、蜀への忠義は本物だっ!

画像は霍弋の父上霍峻さん

リンク元http://www.lishiquwen.com/news/83982_all.html

演義での登場回は第119回。蜀滅亡後です。 建寧の太守霍弋は、成都が落ちたと聞くや、喪服を着けて西の方を望んで3日泣き続けていました。

諸将らは、天子はすでに降伏したのだから、早めに降参したほうが良いと言うと、

「便りも途絶えて、天子の安危すらわからぬ今じゃ。魏主が陛下を礼遇しているとわかったら、城を開けて降参もしようが、万一、陛下に危害を加えたり辱めたりしたなら、君辱めらるれば臣死すとか、断じて降りはせぬ」

一同もこれに同意し、すぐに洛陽へ使者を派遣しました。

司馬昭の脅しだったのでしょうか。劉禅はこの国を乱したという咎で、殺されそうになりましたが、一命をとりとめ、絹や金銀財宝を恵んでもらいました。これを探知した霍弋は投降。

演義での活躍は終了です。

 

蜀の辺境を守る将はいぶし銀!

建寧?ああ、南蛮との境の辺鄙な土地だろ?左遷人事じゃない?」

などと思うなかれっ!

建寧などの南蛮族の統治は難しく、張翼将軍すら手を焼きました。

厳しいだけでは駄目だし、甘すぎてもダメ。 信賞必罰がきちんと出来るけじめさ、異民族、異文化に対しての寛容さ、これらを受け入れられる度量も必要です。太守、いや、人としてのキャパは相当高かったと思います。霍弋。

司馬昭も彼の態度に感銘し、霍弋を南中都督に命じました。人材を抜擢するなら、庶民、奴隷、出自も問わず、また敵味方も問わない。魏、司馬氏らしい度量のでかさです。

 

蜀滅亡後も戦功を重ねる

蜀滅亡の翌年。 呉の呂興という人間が、魏に帰順する動きがあり、交州周辺が呂興に呼応。大規模な反乱へと発展しかけ、霍弋は魏から命を受け、呂興の救援に向かいました。すったもんだがあり、呂興が自分の部下に殺されてしまいました。

しかし、霍弋はそのまま進軍。呂興に呼応した交州諸郡が空白地になっていたので、そこを平定し、呉の領土を大きく削りました。

火事泥? いやいや、交州のような蕃地を平定するのは並の手腕ではありませんぞっ!

やっぱり、霍弋ウィ~ね~!