三国志演義後半戦の記念すべきトップバッターは公孫淵!

どうも!諸葛菜ですっ!

記念すべき第1号に紹介される武将は・・・

gongsunyuan

公孫淵だっ!!

三国志演義」第百六回で見事に魏の司馬懿に屠られました。

公孫淵 兵に敗れて襄平に死し」

と、題名を見ただけでこの人の運命は分かってしまいます(汗)。

では、のっけから題名で死の宣告を受けちまった公孫淵君にズームインっ! 公孫淵(生年不詳 - 238年) 祖父:公孫度、父:公孫康、兄:公孫晃、子:公孫修 拠点:遼東の襄平 その他:文武兼備、気性荒く、戦いが大好き! 公孫氏と言ったら公孫瓚(サン)が思い浮かびます。 遼東地方ではかなり良い血筋ですね。曹操在世中は、祖父の公孫度もその土地を守り、父の公孫康も、曹操に追われて逃げてきた袁尚をだまし討ちにして首を謙譲したりと、世の動きに逆らわずやってきました。父の公孫康が死に、子供の晃と淵が幼かったため、叔父の公孫恭が引継ぎ。 その後、公孫淵が叔父の位を奪い襄平公に。

兄貴の公孫晃はその頃、魏にいたんですね。 それじゃあ・・・弟の暴走は止められないか。

そんな折、呉の孫権が使者を公孫淵に遣わして燕王に封じようとしたところ、中原の威勢を恐れ使者を斬首。曹叡公孫淵を大司馬・楽浪公に封じた。

しかし、公孫淵はこの位を不満に思い、燕王を自称。 ええ、この時点で公孫淵死兆星が輝きました。呉の使者を斬った時は、空気を読んだのかと思いましたが、結局はただ単に地位が欲しかっただけだったなのか…。 あまりの無謀っぷりを見兼ねた副将賈範が、

「中原から送られた上公の爵は、決して卑しい位ではございませぬ。これに背くようなことはまことに理に合わぬこと。しかも中原の司馬懿は兵略にたけて西蜀の諸葛武侯すら手を焼いた者であり、殿ではとうていかないますまい」

確かにそのとおりなんだが・・・ もう少し言い方を工夫した方がよかったんじゃないのか!?賈範君っ!?

相手は叔父さんを追っ払ってしまう乱暴者なんだぞっ!案の定、公孫淵に縛り上げられてしまいます。

参軍の倫直が賈範に助け舟を出します。

「賈範の申し条はもっとも(中略)軽挙妄動を慎まれるようお願い申し上げまする」 どうやら襄平市内では犬が頭巾を被ったり、着物を着て人間の振る舞いをしたり、頭・顔・目・耳・口・鼻全て整っているが手足の無い肉塊が現われたりと、怪奇現象がたびたび起こっているようです。

諫めを聞かない公孫淵は怒り狂い、この忠臣2名を打ち首に。 遼東15万の兵を起こし、中原へ繰り出しました。 燕王公孫淵VS司馬懿 大将軍卑衍と楊祚(この二人もなあ…)に兵を預け遼遂に陣を敷き、司馬懿の足止めをはかりました。

が、司馬懿はこいつら二人をスルー。 あわてて司馬懿を追いかけるも、中途で夏侯覇、夏侯威に襲撃され斬り殺されます。二人の大将がやられビビリまくった公孫淵は襄平城に立て籠もりますが、兵糧少なく持久戦ができず、2回降参を願い出ます。 司馬懿は2回とも降参を却下。 しかも、自分から仕掛けておいて2回もの降参を申し出てきたことにブチ切れ!

2回目の使者に対し、戦いについての「5つのやりよう」をプレゼンしてくれます。

  1. 戦えるなら打って出ろ
  2. 戦うことができぬなら守れ
  3. 守ることもできねば逃げろ
  4. 逃げることもできねば降れ
  5. 降ることもできねば死ね。

ひぎィ…最後の一言は鬼です。 五択じゃなくて、一択ですよ、これじゃあ。。。最終的に「詰み」ってことね…。

演技後半の数少ない名台詞といえるでしょうな。

結局、公孫淵は屈強の者1000人と共に逃亡を図りますが、夏侯覇、夏侯威、張虎(張遼の子)、楽チン(楽進の子)に囲まれ降参。 公孫淵と息子の公孫修は斬首。

燕王公孫淵、終了。

なんかこう、もっとうまく立ち回れなかったのでしょうか・・・公孫淵さん。 呉の孫権公孫淵を懐柔して、魏に揺さぶりをかけさせることが目的だったと思います。反乱をするのなら、呉に利用されていることを認識しながらも呉の後ろ盾を得ながらやった方がましだったのではと。

遼東での反乱にあわせて、呉が北上という連鎖反応が起きれば、蜀の姜維も漢中から兵を繰り出していたはず。将兵の士気も違ったものになっていたでしょう。 15万人で挙兵したのに、もったいない・・・。