鍾会 part4 劉備にもなれず 野望半ばにして果てる!
どうも! 諸葛菜です!
そろそろ・・・鍾会にけりをつけたいと思って・・・
参るっ!
[caption id="attachment_2061" align="aligncenter" width="523"] 百度:鍾会より[/caption]
- 鍾会 冷酷?野心家?許儀殺し?俺に取っちゃあ褒め言葉だぜ!
- 鍾会 part2 才能をきらめかせ、蜀へ進軍!主要関門を次々突破!
- 鍾会 part3 小物臭全開!鄧艾を出し抜け!
- 鍾会 part4 劉備にもなれず 野望半ばにして果てる!
姜維と謀反計画を練るっ!
これは姜維自身が鍾会に屈服したのではなく、鄧艾がすでに成都を陥落させ、劉禅陛下が降服させられたのでやむなく降参したものです。
姜維は泣きながら、「今もって降参は早すぎる・・・」と。
鍾会はこれに胸を打たれて座からすべり下り、上座に直して賓客として扱いました。姜維は戦でも経験豊富で苦労人ですし、この時は老将軍。ぼっちゃん総司令鍾会を手玉に取るのはさして難しいことではありません。
「鄧艾が相手だったら降参はしなかった」 「司馬氏の隆盛も全て鍾会さんのおかげだ」
と言われて、鍾会は有頂天になってしまいました。さらに、姜維のこの言葉に鍾会は矢を折って兄弟の契りを結び、すっかり心を許して、彼に印綬を預けて前どおり軍勢を率いるよう命じました。
・・・姜維の関心を引くことと、魏の寛大な態度を見せ付けたかったのでしょうが・・・人をすっかり信用してしまう若さと坊ちゃんぶりが非常に目に付く鍾会です。
成都では功第一等の鄧艾が調子に乗り始め、司馬昭は監軍衛カンを鄧艾・鍾会の目付け役として謀反をしないよう防ぐよう命じるとともに、鍾会の位をあげて鄧艾を牽制せしめます。
「鄧艾は、わしに勝る功名を立てて大尉に封じられたが、司馬公は彼に謀反の志があるのではないかと疑って衛カンを監軍に命じ、わしにも詔を賜って彼をおさえようとされておる。貴公にご意見があったらきかせてもらいたい」
姜維は、
- 鄧艾の勝利はまぐれ。別に妙計を施したわけではない。
- 鄧艾の謀反は見え透いている
と言ったもんだから、鍾会は頬をほころばす始末。。。また、姜維は西蜀がいかに豊かな土地であり、王覇の業を立てるには最適の地であることを伝えました。
鄧艾を貶め、謀反人へと仕立てあげる
鍾会は鄧艾が謀反の心ありと言うことを、司馬昭へ上奏させました。鍾会は鄧艾の使者を捕らえ、鄧艾の書いた上奏文を奪い取り、無礼な言葉に書き直し、己の上奏文と符合させた。
姜維の言いなりの癖に、鍾会、芸は細かいです。ますますこしゃくな野郎です。鍾会は姜維と共に鄧艾を捕らえる策略を練ります。姜維が言うのに、まずは衛カンを鄧艾の元に派遣し、捕らえさせる計画を練りました。
すったもんだありましたが、結果、鍾会は鄧艾を捕らえることに成功。囚人車に押し込められた鄧艾に一鞭くれ、
「牛飼いの小童めが!出すぎたまねをしおって!」
と罵ります。
討蜀大将軍鍾会・・・前回は鄧艾の部下諸葛緒を亀甲縛りにして囚人車に押し込めていましたし、完全なドSぶりを読者に披露してくれました。えらくなると、人間の本性が出てくると言いますが、鍾会は今まで抑えていた本性、「サディズム」あらわになってきました。
ここまで来ると半分趣味です。鄧艾を捕らえたことで、鍾会は威勢を大いに奮います。
「身どもは、今日、はじめて日頃の願いをかなえることができた」
姜維:えっ!もう!?
姜維は、鍾会がすでに司馬公の威勢をしのぐほどになったのですから、引退してゆっくりすればと冗談をかまします。
「これは異な事をw。身どもはまだ40にもならず、このうえ、まだまだ功名をあげようと思っておるのに、なにもそのように世を避ける者の真似をすることはないではないかw」
「さすがは伯約、よう身どもの心を見抜かれたな!」
「おやっ?」と思ったのが、鍾会の口調。
鍾会の一人称が「わし」や「それがし」から「身ども」に変わっている・・・。
イラつくぜ・・・ずいぶんえらそうな口調です。
goo辞書で念のため「身ども」について調べてみました。 『[代]一人称の人代名詞。われ。わたし。対等、またはそれ以下の者に対して改まった感じで用いる。 「―がよい所へやってしんぜう」〈虎清狂・猿座頭〉』
なるほど・・・改まっているとはいえ、対等以下に見ているんですね、姜維を。読者に分かりやすい鍾会のこの増長ぶりっ!゛(`ヘ´#)
中国語原文では「吾」なので、この日文への「身ども変換」は、訳者の立間祥介先生のこだわりなのでしょう。
多くの読者がいらっとしたはず。
グッジョブです、立間先生!\(^_^)/
司馬昭から謀反の疑いをかけられ、ビビる鍾会
そんな有頂天になっているのもつかの間、司馬昭から恐怖の手紙が到着。
「わしは万一鄧艾を取り逃がすようなことがあってはと思い、長安に出向いてきた。近々の内に会えると思うが、とりあえず一言知らせておく」
この文面は怖いです。私もドキリと思いました。当人の鍾会は輪にかけたビビリ。超仰天してしまいます。
「み、身どもの軍勢は鄧艾の数倍もあったゆえ、わしに彼を召し捕らせるとならば、身ども一人でやりおおせるであろうことくらいは、晋公とて知っているはずだっ(汗)!そ、それをこうして軍勢をひきいてきたというのは、身どもを疑ってのことに相違ないっ!(゚Ω゚;)」
ヒステリックに叫び、姜維に助けを求める鍾会。 が、姜維はクールに対応。「主に疑われたら、おしまいだぜ」と。
小者臭大放出でしたが、ここへ来て開き直ります。
「わしの腹は決まった!首尾よく行けば天下を握ることも出来るのだし、またもし仕損じたとて西蜀にこもれば、劉備くらいまでにはなれるのだ!(`Δ´)」
劉備くらいまでにはなれるのだ!
劉備くらいまでにはなれるのだ!
劉備くらいにはなれるのだ!
・・・
・・・
暴言。冒涜。
三国志前半からのファンのハートを傷つけたこのセリフ!私も演義後半大好きですが、前半も好きです。劉備、関羽、張飛の三兄弟。曹操、孫権、董卓、袁紹などの豪傑あってこその三国志ストーリーです。
これは言ってはいけません・・・! 鍾会は有能だけど、いろいろと批判される原因は、この一言に凝縮されていると言っても過言ではないっ!
- 残念なイケメン
- 策士策におぼれる
- なんかむかつく
- うざい
などと言われるのがわかる気がします。
大将たちを味方につけて謀反を画策っ!
鍾会は魏の大将を味方につけるために大芝居を打ちます(猿芝居とも言う)。
正月15日の宴会で、鍾会が突然号泣。
大将たちが驚いてわけを聞くと、
「郭太后がご臨終に際してわしに詔を賜ったのじゃ。司馬昭が大逆無道にも南ケツにおいて天子(曹髦)を殺した上は、早晩、魏を廃そうとするであろう故、わしに討伐せよとの仰せである。そなたたちも連判状に名を連ねて、わしに力を貸してくれい!」
ただでさえ人望も薄く、夏侯咸・王買・皇甫闓・爰セイ・龐会らにもなめられていますし、諸葛緒の兵権を奪ったり、許儀を殺したりしているので、その他モブ武将は鍾会の人となりを知っています。
一同はただ驚いて顔を見合わせるばかり。
「ぼ、僕の言うことを聞かないと斬り殺すぞお!ヽ(`Д´)ノ」
とキレ始めたので、一同しぶしぶ連判状に名を書き連ねます。鍾会は彼らを宮中に監禁。兵士たちに厳しく見張らせた。姜維もモブどもが不服な様子であることに気づきます。
…ていうか、あんたも早く鍾会を見限れや・・・。
「もはや宮中に穴を掘らせ、棒を何千本も用意するよう命じておいた。いなやを言えば、殴り殺して埋めてやる!」
棒を何千本用意しても、あなたに味方してくれる人は何千人もいるのでしょうか…?これが、大半の読者の共通した疑問です。
しかし、このたくらみも鍾会の部下を通じて監禁されている武将たちに知られてしまいます。武将たちは鍾会を逆賊とし、決起を決意します。そんなことを知らない鍾会は、
「身どもは昨夜、数千の大蛇に噛み付かれた夢を見たのだが、この吉凶はどうであろうか?」
まさに死亡フラグ。魏延の角の生えた夢とそっくりです。姜維は話をあわせるため吉兆であると伝えました。
「道具もそろったが、大将たちを呼び出して、気持ちをたしかめてみることにしてはどうだろうか」
道具? (・・ 三・・)
棒を何千本とか・・・頭はいいのに、時々わけの分からないことを言って、読者を混乱させる鍾会。大将たちの気持ちを確かめるとか、そんな悠長な場合ではありません。
とはいえ、大将たちをいつまでも閉じ込めておくのは不安になってきたので、屈強の者どもに大将たちを殺すよう命じました。
しかし、時すでに遅し。大将たちは内外から呼応して大暴動。鍾会も自ら剣を奮い、モブ武将たちと戦います。血しぶきが上がる肉弾戦、遠くから飛んでくる矢・・・鍾会大ピンチです。
「お、俺は天才だあ~~~~!」 「て、天才の俺が、なぜこんな目にいいい~~!!」
『北斗西斗 -北斗の拳を異常に研究するサイト-』様より アミバ
と狂乱状態。矢を雨の如く浴びせられ絶命。無双発動することなく死亡してしまいました。
ウィキによると、
「鍾会は『易に互体なし』という論文や、才能と本性の同異についての論文を書いた[3]。鍾会の死後に、鍾会の家から、鍾会が書いたと思われる『道論』と名づけられた20編の文章が見つかったが、内容は「道家」の説でなく「形名家(論理学派)」の説であった。」
文学者としても活躍していました。 「才能と本性」には鍾会の自分は凡人ではない!事がつらつらと書かれていそうで、読んでみたいです。現代ならPHP文庫あたりが出版してくれそうです。
後の先生たちの評価
陳寿は鍾会を「熟練した策略家であったが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族とともに殺害された」と評している。
『三国志演義』の毛宗崗の批評では、鍾会の反逆計画について「秘密が守られずしかも迅速でなかった。その死は当然である。しかし事がうまくいっていればいたで、諸将を殺した後に姜維に殺されていただろうから、どちらにせよ鍾会は死ぬことになっただろう。」と評している。
残念なイケメン軍師・・・。 後世からこれほどのぴったり評価はいただいているのに、すごくうなずけました。
最後の反乱未遂は鍾会の小者ぶりが、さらにさらにあらわになり、劉備云々のくだりでは読者の反感を買ったり、いいとこなしです。
こんな鍾会ですが、三国詮議後半を盛り上げてくれたりと愛着はありますw。