費褘 蜀の四相の一人 剛胆な蜀の重臣

どうも!

諸葛菜です!

  最近、魏の武将ばかりなので蜀の武将でピックアップできるのは・・・費褘が目につきました。

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費褘(生年不詳-253年) ウィキを見るだけで、費褘の人物としての大きさが十分伝わってきました。 さすが、蜀の名将という他ありません。∑(゚Д゚) というわけで、以上!

・・・で終わらせるわけにはいかないので、孔明死後の演義での費褘の活躍を見てみましょう。

孔明没後、後継者の一人として名前が上がった費褘。 ウィキにあるまんまなのですが、このエピソードが大好きなので、抜粋します。

ウィキ抜粋

費禕伝に引かれている『費禕別伝』によると、尚書令時代の費禕は日々の膨大な政事を過ちなくこなしつつも、宴席や博打事などにも遊び呆けていた。しかし、同職を引き継いだ董允がこれを真似ようとすると、数日で仕事が大きく遅滞した。董允は「人の能力の差とはこれ程あるものか。私の力は(費禕に)全く及ばない。一日中仕事をしていても、全く余裕がないではないか」と嘆いた。一方、私生活での費禕は慎み深く質素で、家に蓄財をする事はなかった。 244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前になって光禄大夫の来敏が費禕を訪ねてきて「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。費禕は勝負を受け二人は囲碁を指し始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を撃破して退けたという。

リンク元Wikipedia 費イ 事務処理能力、そして、肝の据わり具合は、前線の武将以上のモノがあります。 来敏という同僚がでてきていますが、この来敏たらいう奴は、ウィキを見ていただけるとわかるように、

「言葉に節度がなく、何度も免職や格下げにあったとされる。 しかし、来氏は荊州の名族であり、劉禅が太子だった頃からの臣であったため、何度でも復職した。」

私は、出陣前のくそ忙しいとき、こんなしょうもない奴に碁の相手をしてあげた費褘の心の広さに感心しました。

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これは蔣琬との一局

孔明が死に、司馬懿のクーデター、夏侯覇の蜀への亡命・・・。 時代は移り、蜀の朝廷は、国難をしょって立つ人材が少ない人材欠乏症に陥っていた。

そこへ、魏の勇将夏侯覇が亡命してきたもんだから、姜維は一人フィーバー状態。 今こそ北伐を!と提案します。

 

「近年、蒋琬(エン)殿、董允殿が相次いで亡くなられ、朝廷の人材も少なくなっておるおりゆえ、軽々しく動くのは差し控え、しばらく時機を待つのがよろしかろう」

と、費褘。

「それは違う!(中略)さように便便と時を過ごしていて、いつ、中原をとりもどすことができるといわれるか!」

「『彼を知りおのれを知る時は、百戦百勝』と孫子も言っておる。われらの才は丞相におよびもつかぬ。その丞相ですら、なお中原を回復することがかなわなかったのですぞ。われらにできるはずはござるまいが┐(^ヘ^)┌」 姜維の口のきき方が、ちょっとなっていないので、

 

「だまらっしゃいっ!」

 

と、一喝してもOKです!

そこは大人な費褘。最近の若者でも知っていそうな孫子の格言をもって姜維を抑えます。とても説得力のある一言だと思いました。

費褘の発言をみて、「こいつもへたれの腐れ儒者と同じじゃないか!」と思った方、それは違うのですぞ!

国力が疲弊し、人材不足。姜維は前線の将軍として智謀もあるけど、蜀全体を見渡すと言うことに関しては費褘の方が一枚も二枚も上手。現状を認識したうえでの発言なのです。

まあ、結局、劉禅の決裁が下りて、出兵してしまうのですけど・・・。 演義ですと、これ以降登場しないんですよね・・・。

吉川英治三国志の最終巻あとがきでは、魏の曹爽が大軍で攻めよせてきたときに、迎撃してこれを破ったと書いてありました。

軍の統率もなかなかのものだったんですね。

費褘は、張嶷の警告を聞いていたにもかかわらず、魏の降将郭循というクソ野郎ヒットマンに刺し殺されてしまいます。張嶷 part1 自分の命と引き換えに姜維を救出した漢!! 費褘の死後、黄皓ら宦官が猖獗し始めました。 費褘がもう少し長生きしてくれたら・・・と思ってしまった読者はたくさんいた。はず。

費褘よ・・・安らかに。