賈充 司馬昭に取り行ってそのまま晋の大臣級へとのし上がった!
どうもっ!
諸葛菜です!
ほんと・・・不定期更新になってしまいましたな…。 ブログ立ち上げ時から1年くらいまでにコメントを頂いたアメブロガーさんたちのブログを見てみると、すでに閉鎖されている方もずいぶんおられました。 不定期更新とはいえ、ブログがあるというのはまだマシなほうなのかな^^;
三国志演義後半のメインキャラというべき、賈充サンを書いておりませんでした。 出演回も多いから、かなり長期戦となるキャラクターだぜ~!
賈充 三国志演義後半での初登場回111回。
司馬懿、司馬師が亡くなり兵馬の権が自分一人に集中してしまった司馬昭。天子の位を奪ってやろうとの魂胆が見え見えでありました。そんなイケイケの司馬昭に擦り寄って行ったのが、相府の長吏を勤めていた賈充。
「殿には、今日、天下の大権をおとりになっておられますが、四方の者どものうちには不満を抱く者もござりましょうゆえ、それとなく意向をさぐってみたうえで、ゆるゆる大事を図られるがよろしゅうござりましょう」
司馬昭もこれに激しく同意。
兵士を慰労する目的で、「なら、お前が行け」と、賈充が命じられました。 この頃の賈充にとっては嫌がるどころか、手柄の一つでも立ててやろうかと意気込んでいたんでしょうな。まず、向かったのが依りにもよって、淮南の諸葛誕のところです。
いきなり大物を訪問。 っていうか、下調べをかなりしていたような気がしますね・・・諸葛誕様をロックオン!中央政府からお役人様がいらっしゃったということで、諸葛誕もそれなりに宴会を催し、接待を行いました。 酒が程よく回り始めた頃、賈充が
「この頃、洛陽の賢者たちの間では、お上が惰弱で天子としていただくことはできぬ。司馬大将軍は三代にわたって国家をささえ、その功徳は天をおおうばかりであるゆえ、魏の大統を譲られてしかるべきだとか、論じられておりますが、将軍はこれをどうおかんがえでござりますか」
と探りを入れたところ、
「そなたも魏の碌を代々喰んでおきながら、よくもそのようなことをぬけぬけと言えたものだ」
「いや、それがしは人の申して折ることをお伝えしただけでござりまする(:.;゚;Д;゚;.:)」
「天子にもしものことがっあら、一命を投げ打ってでもご奉公するつもりじゃっ!」
諸葛誕相手にこんな口を聞いて、生きて帰れただけでも感謝しなくちゃ。 諸葛誕の取り巻きに、若かりし頃の横山三国志の張飛みたいな奴がいたら、少なくとも木に縛り付けられて、ムチ打ちの刑に遭っていましたよ!
ムチ・・・つーか、木?!更に、鉄輪でお下げを木にくくりつける手の込みよう
賈充、「これは俺の友達の友達が言っていたんだけどさあ~!」と、曹髦様の悪口を言ってみたものの、逆に脅かされて帰ってくるという体たらく。
が、司馬昭にとってはよい取材であったらしく、賈充はすぐに有る事無い事をチクりまくる!
「ううむ!小癪な!」
いとも簡単に煽られる司馬昭!まあ、司馬昭にとっても、諸葛誕クラスが兵馬の権を前線で握っているとなると気も気でないでしょう。
賈充が、
「諸葛誕は淮南の人心を深く掴んでおりますゆえ、捨ておかば必ず禍いとなりましょう。すみやかに始末されるがよろしゅうござります」
と言っても、お前、どうせ前線来ないんだろ?
此後、数に物言わせて司馬昭が諸葛誕&呉連合軍をぶっ潰すんですよね。 口先一つで天下の大軍を動かした賈充、恐るべし(゚д゚)!!
賈充は胸糞の悪い奴で、李儒を思わせる程の悪行超人だけど、三国志演義後半の没個性キャラがひしめく中、スパイスの効いたキャラなのでないがしろにはできませんw
次の活躍の舞台は三国志演義第114回です。
蜀の姜維率いる軍勢が度々魏の国境を犯しましたが、叩き上げの努力家将軍トウ艾により、見事に撃退していました。
姜維の暴走、蜀宮廷の腐敗に目をつけた司馬昭は、「時すでに至れり」と、思いそろそろ職を討とうと賈充に話を持ちかけました。
「今はその時ではござりませぬ。天子は当今、殿を疑っております。先年、二匹の黄龍が寧陵の井戸に現れましたので、群臣が瑞兆なりとして祝いを述べたところ、天子は、『瑞兆ではなない。竜は天子を表すもの。それが上は天にあらず、下は田地にもおらずに、井戸の中に居るとは、幽囚の兆しである』と言い、『潜竜の詩』一首を作りましたが、その詩の心は、明らかに殿を指したもので、こういう詩でござります」 傷ましきかな 竜 困しみを受け 深淵に躍ることあたわず 上は天漢に飛ばず 下は田に現れず 井底に蟠踞し 鰍鱔(しゅうせん どじょうや鰻)その前に舞う 牙を隠し爪甲を伏す ああ 我もまた同然 これを聞いた司馬昭はもちろん激怒するのですが、曹髦のwikiを見ると、潜竜の詩は現存しないようです。
『潜龍』の詩は現存しない。『三国志演義』では、『潜龍』で司馬昭一党を鰍や鱔に準え、そのことを知った司馬昭に面前で侮辱されるが、実際の詩である根拠は無い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%AB%A6
なあ~んだ、羅貫中御大のいつもの盛りか!
何らかの詩を詠んだのでしょうけれど、こんな詩の内容ではなく、おそらく賈充が盛ったんでしょうな。
曹髦が何かを企むのは必至なので、早いうちに手を打てと司馬昭を煽る賈充。潜竜の詩の一件を持ち上げて、司馬昭は直接曹髦に詰め寄りました。曹髦はこれに肝を冷やしましたが、返って彼のファイティングスピリットを掻き立てることになり、王経ら忠臣に助力を乞い、司馬昭討伐の軍を挙げます。
賈充は、得たりとばかりに軍勢を率いて曹髦の前に立ちはだかります。 両脇には武闘派と思われる側近、成済、成倅兄弟を連れていました。
曹髦は、「朕は天子であるぞ!」と、叫び、一同怯んだのですが、
賈充「司馬公がお前を養っておられたは、何のためか?今日のためなのだぞ!」
成「殺しますか、捕らえますか?」
賈充「殺せ。司馬公の命令じゃ」
部下に皇帝を殺させ、やはり皇帝をいきなりサックリやっちまったのは、司馬昭も誤算だったのでしょう。
焦伯も殺されたし。
司馬昭、迫真の演技で仰天した振りをし、号泣。
ちっ・・・下手な芝居をうちおって…。
陳泰からは、「少なくとも賈充を殺さなければ天下に示しがつかない」と、言われますが、「もう少し穏やかな方法で」というわけで、成済兄弟が血祭りに上げられてしまうんですね。
悪玉超人賈充。 前回に引き続き、悪行ぶりがエスカレートしていきますね!年を追うごとに彼の悪巧みにはいやらしさと磨きがかかり、隠れファンも多いことでしょう(゚д゚)!
成さん「わしに罪はない!司馬昭がお前の命令でっ(略」
賈充さん、司馬昭の懐で助言をし、諸葛誕討伐、曹髦殺害など暗躍中。
第115回。
度々魏の国境を犯す蜀の軍勢は、中華の3分の2を支配する司馬昭にとっても目の上の瘤です。 姜維の侵攻には、洛陽にいる司馬昭もブチギレ!
「実にわしの患いの種ジャ!」
賈充が、
「姜維は孔明の兵法を深く呑み込んでおりますゆえ、早急には追いのけることは出来ませぬ。知勇兼備の大将を一人遣わして刺し殺させますれば、大軍を動かす手間もはぶけるのではござりますまいか」
知勇兼備の大将?鉄砲玉のことですよねw 姜維を刺し殺すとなると、頭もよく腕っ節も良くなければならないので、知勇兼備と言いたくなるのはわかりますが。 蜀の大臣であった費イを宴会の最中に刺し殺した郭循という魏の降将がいましたが、これに味をしめてしまったのでしょうね。確かに、キーマンだけを殺せば、多くの犠牲を出さずにすむ可能性はありませんが、そうは簡単に行きません。
荀ベンという参謀が、
「わざわざ殺し屋を雇わなくても、大軍でやっつければいいじゃないの」
と意見を述べ、司馬昭もこの意見を入れ、結局、大軍で攻めることになりました。
で、トウ艾、鐘会の活躍により、蜀を平らげるのですが、成都を支配下においたトウ艾が己の功を鼻にかけて独立する野心有りと、司馬昭に判断され、ここで賈充が一言。
「鐘会を位につけて、彼を牽制せしめたら良いと存じます」
この策略に、鐘会&姜維が見事に乗っかります。 鐘会もトウ艾に嫉妬しまくりですからね。疑心暗鬼にも陥り、トウ艾をハメるべく奔走しました。
もちろん、賈充の性格ですから、鐘会の行動にも疑いを抱き始めます。司馬昭自身が大軍を率いて出陣します。これには引き篭もり気味の賈充も同行したのかな。 晋の時代へと…
蜀を平らげた魏ですが、その命数もすでに尽きようとしていました。
司馬昭は、子供のいない兄司馬師に自分の息子である司馬攸を養子に出していたので、彼に位を譲ろうとしましたが、賈充らは自分の世継ぎである司馬炎がいるにも関わらず、司馬攸に位を与えるのは不吉であり、司馬炎自身も帝王の相をがあるので、是非、司馬炎を立てるよう諌めました。
ある日、司馬炎が
「曹操はかつて『もし天命がわしにあるとすれば、わしは周の文王となるであろう』といったというが、これは本当か」
賈充、
「曹操は代々漢朝の禄を食んでいたものゆえ、簒奪の汚名を受けるのを恐れて、さようなことを言ったもの。曹丕を天子となさんとの下心は明らかでござります」
諸葛誕も言っていたけど、あんたの親父である賈逵とあんただって曹一族から給与もらっていたんだから、いくら新興勢力に阿るため、保身のためとはいえ・・・もっと他の言い方があったんじゃないの?
「父上と曹操を較べてどうか?」
と、聞かれた時も、
功績は大きいけれど、人民は特になつかずに東西に戦ばかり。司馬懿、司馬師、司馬昭が徳を敷き、蜀をも平定し、功績は曹操とは比べ物にはならない。
と、シャッキリポン。
受禅台を築いて、魏を嗣ぐように献策しました。 司馬炎は曹奐を脅迫し、トントン拍子で受禅の儀式まで進み・・・皇位を司馬炎に譲ることに…。
曹奐も、「どうしたら良かろうか?」って、賈充に聞いていましたからねw聞く相手が間違っていました。
「魏の命数はすでに尽きました。このうえ、天に逆らうのはよくございませぬ。陛下には、漢の献帝の例に習われ(略)」
曹奐陛下、これにて皇位を追われることとなり、禅譲。玉璽を司馬炎に差し出しました。
司馬の裏に賈充ありっ!( ゚д゚) 司馬昭から司馬炎へ王位が継承され、継承とほぼ同時に晋の皇帝となった司馬炎。 司馬家には大変忠実な賈充も、司馬炎に嫌われるどころか腹心として大活躍です。
三国志演義第120回。
晋・呉の国境では羊コと陸抗がにらみ合いを続けておりましたが、二人の仲が親密すぎるということで、呉皇帝孫皓は前線の大将から陸抗を外してしまいました。
民心はすでに孫皓からはなれ、前線の大将陸抗もいなくなったので、呉討伐の好機はまさに今!と、羊コは上奏文をしたためました。
しかし、これを極力諌めたのが賈充。
このため、羊コの提案は受け入れられること無く、羊コは失意の中病死。
この後、王濬、杜預が揃って呉を打つべしとの上奏文を送ってきたので、司馬炎は腹をくくって呉討伐を開始いしました。
ただ、演義には書いていませんが、賈充はかなり反対したようです。
この時代では、西方の異民族秦で大きな暴乱が起こっていましたし、これには司馬炎も大いに頭を悩ませていました。
馬隆らの活躍により討伐は成功しましたが。
さて、ご討伐ですが、極めて順調です。このまま一気に呉の首都も落としてしまえ
司馬炎は大喜びですが、賈充の意見はというと
「我軍はすでに久しく異郷に労苦を重ねてきておりますゆえ、風土にあたり、疾病をおこすことは必定にござります。いったんお召しかえしのうえ、後図を策するのがよろしかろうと存じまする」
この意見に、張華は大反対。
すでに敵中深く斬りこんでいるのだから、このまま突っ走るべしと主張。
賈充、この意見に激怒。
「そなたは天の時、地の利ということを知らないのか。みだりに功名心をかきたてて士卒を疲れさすなどとは、そなたを斬って天下の見せしめとしてもたりぬほどじゃぞ」
政治的な部分ですよね。 賈充は出兵に反対してきた人ですし、きっと宮廷の主戦派と反対派の争いがあったのでしょうね。 週刊ヤングジャンプで連載中の『キングダム』でも、秦VS6国連合合従軍で戦争反対派と賛成派に分かれて喧嘩していました。
晋が勝利しそうなので、賈充としても危機感を抱いたのかもしれません。
結局、呉を屠ることに成功するのですが、演義では賈充がつらい目に合うシーンはなし。
とっ捕まえた孫晧様に嫌味な質問をした挙句、逆に辱めを受けるというオチで終了。
賈充「聞くところによれば、孫皓殿には、つねづね人の眼を穿ったり、頭の皮を剥いだりされたとか。これはいかなる刑にござるか」
孫晧「臣下の身でありながらその君を殺したり、奸佞不忠の者には、この刑を加えたのでござる」
賈充は恥じ入って引っ込むのみ。
やれやれ。 賈充さんを書きを終えましたよ。てか、かなりいい加減だなあ…。 賈充はメジャーで、三国志マニアにはすでに知れ渡っている有名人だし、私もそれほど気になる存在でもないので、演義をなぞるようなまとめになってしまいました。