王平 北伐時、諸葛亮孔明の右腕!乱戦の勇将、治世の名将とはこのオレ様YO!
どうも!
諸葛菜です!
今回は皆さんご存知の超有名?武将^_^; 王平さんです。
王平は字もろくに読めなかったのは意外でした。
それと、異民族出身だったんですね~!
「王平というと諸葛亮に従って北伐。魏軍相手にひるまずに戦った、蜀の五虎将たちと比べてやや小粒ながらも智勇兼備の勇将だろ~?超有名じゃない!」
確かにそうですが、彼は戦以外でもしっかりと功績を残しているのですぞっ!!!
あ、王平って蜀での実績が多くあるため、生粋の蜀の武将と思いがちです^_^;
姜維同様、昔は魏軍だったのです。つい忘れてしまいます。 演義では徐晃と仲たがいして劉備軍に投降したことになっています。
その後、孔明に従い北伐。 馬謖をフォローしたり、魏の猛将張コウを喰い止めたり、大活躍でした。
魏延の反抗を食い止めるために体を張る
さて、孔明死後の王平。 演義や三国志で有名な諸葛亮孔明が残した魏延を討つための計略。 諸葛亮孔明の遺命を受けた楊儀ら蜀軍の与党に楯突いた魏延を討つため、費イを遣わし、趙直を遣わし、馬岱を使って埋伏の毒を使い…。
なんとも手の込んだ計略ですが、この仕事、王平もお手伝いしています。
演義での王平が魏延を食い止めるシーンでは、「何平」と名乗っていました。 王平の母親が何氏だからだそうです。
孔明の棺を守って成都へ退却中の蜀軍与党。 それを追う魏延。魏延はこの当時万夫不当の勇将でしたから、彼とまともに戦っては勝てません。
「丞相みまかれてから日も浅いと申すに、よくも謀反なぞ企みおって!」
さらに、魏延の兵士に向かって、
「貴様達はいずれも西川のものであり、国には父母・妻子・兄弟・親戚・朋友がおるであろう。丞相ご在世のみぎりは、貴様達もご恩顧にあずかったはず。逆賊につくよりは、故郷に帰って恩賞の沙汰を待つが良い!」
王平の威喝は効き、魏延軍の中からは逃亡者が続出。 三国志演義後半での王平の活躍はこれにて終了。
孔明死語、演義に書かれていない王平の活躍
で、陳寿さんの評価。
王平伝で「長らく軍旅にあったため文章が書けず、知っている字は10字に満たなかったが、口述筆記させた文章は道理に適っていた。『史記』・『漢書』を人に読んでもらいその大略を掴み、論じては要旨を捉えていた。法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。然しながら性格が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄で、それが欠点となっていた。(中略)忠勇にして厳整な人物であった」
・・・。
民を治める能力も高し!
軽はずみで偏狭で疑り深いところがあったけど、この程度の欠点なんてなんのその!( ゚д゚)
乱世だし、仕方ないさね^_^; 演義後半でも悪行武将はたくさんいるので、こんなの欠点のうちに入らんぜ!と、王平を擁護しましたが、実績はすごいものがあるのですよ。
王平は民を治める能力が非常に高く、漢中に駐屯していた頃は、軍民から大変親しまれていました。軍民を動員して漢中領域内の荒地を開墾。王平は荒地に殖民をしましたが、恨むものはいませんでした。
なぜなら・・・
- 王平は民とともに耕し、民とともに休み、収穫物を没収しなかった。
- 兵士の略奪を禁止。軍律厳しく兵士達をうまく統率。軍人と民間人の融合をはかった。
- 民の生活を第一に考慮。民を慰撫し、田畑を守った。
軍事面での王平
文字は読めないながらも実務能力に長けていた。 北伐の際、戦いでも孔明の右腕として活躍したが、兵法、地理に明るく、補給などの後方支援も手際が良く、費イ・蒋エンたちからも称賛されていた。
王平が漢中を治めてからというもの、漢中の平原一帯には農作物が豊富になり、交易が発展しました。 しっかり管理されていて素晴らしいですね~!
このように合戦続きの漢中をうまく統治できたのは、王平が諸葛亮の教えをそのまま受け継いだため。 それは・・・
「法を以って郡を治めること」
文字があまり読めなくても、民を治める才能はピカイチ。 前線の都市を治めるのって、とっても難しいことだと思います。 特に弱小の蜀にとっては…。
蜀に対峙するのは大国の魏。それもトウ艾や郭淮、陳泰などの名将がたくさんいましたし、西方の羌族だっていつ敵になるかわかりません。
そんな都市に暮らしている住民達は常に不安にさらされていたでしょう(孔明亡き後も姜維が無茶な出兵を繰り返してた^_^;)。北伐が失敗したら、漢中住民の蜀に対する忠誠心も揺らぐでしょうし、下手をすれば住民蜂起なんてこともありえます。
外敵への備え、治政…統治の才能は蜀軍の中でもピカイチ!
「王平すげえ!」
と思ったら「いいね!」で爆散!!( ゚д゚)!